2015年12月31日

助動詞「だ」について(24)

〔『名古屋大学言語文化論集』 第22巻第2号(名古屋大学言語文化部・国際言語文化研究科:2001.3)〕
    <助動詞>「だ」の捉え方(11)

 これまでの検討に基づき、論文「ヨウダとソウダの主観性」の論理性を見てみましょう。

 題名が示しているように「ヨウダ」と「ソウダ」を各1語とし、その主観性の相違を明らかにしようとしています。そして、註に記されている通り「ヨウダ」の推量判断の用法と「ソウダ」の「兆候や様相の現れ」の用法が比較されています。本来は両者の各々の意義と品詞について明かにすべきと考えますが、ここではモダリティ論により主観性の検討がされているためにこのような扱いとなっています。 そして<助動詞「だ」について(17>で見たように次のように結論されます。

 しかし、「ソウ」と「ベキ」は客観的な命題として機能していると考えたほうがよい。その証拠に「ニチガイナイ」と「ヨウ」が疑問の対象とならないのに対し、「ソウ」と「ベキ」は疑問の対象となる。疑問の対象となるということは、「ソウ」や「ベキ」が話し手の存在とは独立した客観的な事態を表していることを示している。

(2)a.*[太郎が来るニチガイナイ]かどうかを考える。

   b.*[太郎が来るヨウ]かどうかを考える。

   c. [太郎が来ソウ]かどうかを考える。  

   d.  [太郎が来るベキ]かどうかを考える。

 こうした事実により、「ニチガイナイ」と「ヨウダ」がそれ全体でモダリティとして機能するのに対し、「ソウダ」と「ベキダ」は「ダ」の部分のみモダリティとして機能し、「ソウ」や「ベキ」の部分は命題として機能することが明らかとなる。

ここでは、語の意義ではなく句の機能が論じられているため≪「ソウ」や「ベキ」が話し手の存在とは独立した客観的な事態を表している≫とされますが、その本質が明確ではありません。これまでの検討からすれば、「ダ」はいずれも肯定判断を表す<指定の助動詞>と捉えられねばなりません。「ヨウダ」の推量判断の用法と「ソウダ」の「兆候や様相の現れ」の用法に主観性の差異があること自体は確かですが、それは「ヨウ」「ソウ」という形式と意義の組み合わせの相違として、その言語規範としての内容が明らかにされねばなりません。上記例文でも「ヨウか」「ソウか」と活用ではなく、「ヨウ」「ソウ」に助詞が接続しており、2語となっています。日本語の膠着語としての本質が理解されていないと言えます。

 これは、依拠した主観的モダリティ論の欠陥と考えられます。言語道具説である記述文法では文の本質を明らかにすることなく、文を形式的に次の平面的な構造に単純化し、

    【〔〔命 題〕 命題態度のモダリティ〕 発話態度のモダリティ】

           図3 文の構造

一つの文は、話し手が切り取った客体世界の事態を描く「命題」と、発話時点における話し手の心的態度を表す「モダリティ」から成り立つと考えられる

とするしかなく、言語の実体論的捉え方の限界を示していると言えます。

 命題とは論理学の用語であり、「AはBである。」という真偽が対象となる特殊な文の形式を指しています。その論理学自体、現在まで文とは何か、意味とは何かが明かに出来ず問題となっています。この命題を文の定義に形式的に取り込むのは単に論理の混乱を招くしかありません。この論文では、最初に指摘した通り、≪[[[雨]だ]よ]。≫という文に対し、≪これらは「雨(である)コト」という事態に対して、話し手が確言(「だ」)の判断を下したもの≫で、≪発話態度のモダリティに相当するのは「よ」の部分≫とし、≪「雨だ」、という判断を、話し手から聞き手への情報提供(「よ」)として伝える機能がある≫としています。そして、≪これらの表現は、話し手の心的態度に依存する表現であるため、主観的なモダリティとして機能するのである。≫と論じています。

 しかし、名詞「雨」は規範としての実体概念であるに過ぎず、これを文から分離して≪「雨(である)コト」という事態≫とすることはできません。こうなるのは、文を命題とモダリティに二分し、「雨」を命題とし、「だ」「よ」をモダリティとした論理的必然です。事実は、「雨」という客体的表現と「だ」という主体的表現が話者の認識に基づいて組み合わされ、表現されて初めて「雨だ。」という文、命題となります。「雨!」という一語文の場合もありますが、この場合は「雨■!」と判断辞が零記号となっています。言語道具説では話者の認識の言語規範を媒介とした表現という言語表現の立体的構造を捉えることが出来ずこのような矛盾をかかえこむこととなります。

 これが明白に露呈しているのは、3.2の次の部分です。

 一方、(23b)に示されるように、推量判断の「ヨウダ」は一般に連体修飾成分とはならない。しかし、次のような場合には連体修飾成分となるので注意が必要である。

(24) 禎子は、本多良雄が夫について、もっと何か知っているような直感がした。(松本清張『ゼロの焦点』)

(25)「いや、つまらんところです。年じゅう、暗いような感じがして重苦しい所で」(松本清張『ゼロの焦点』)

(26) もっとも、その直後に数百年に一度の大震災が襲ってきたというのは、あまりにも偶然がすぎるような気もするが。(貴志祐介『十三番目の人格-ISOLA-』)

(27) 今年のクリスマスは雪が降るヨウナ予感がする。

これらに共通するのは、「ヨウダ」の後に「直感/感じ/気/予感」という話し手の直感的な感覚を表す表現が続く点である。この「ヨウダ」は、(24)のように第三者の心的態度を表したり、(25)のように連体修飾成分となる場合には、客観的表現であることが明確である。しかし、(26)の「気がする」や(27)の「予感がする」のように、「発話時における話し手の心的態度」を表す場合には、「~ヨウナ直感がする/感じがする/気がする/予感がする」全体がモダリティとして機能する。推量判断の「ヨウダ」は、こうした表現が短縮されて「ヨウダ」一語で表されるようになったものであると考えられる。(強調は引用者)

 連体修飾成分という捉え方自体が形式主義にすぎませんが、これまでみてきたように「ヨウダ」が一語で推量判断を表すのではなく、「ヨウ」が推量判断を表し、「だ」は「ヨウ」によって推量されるその内容を肯定判断しています。これらの例文では「だ」は「な」と連体形に活用し、続く「直感/感じ/気/予感」という名詞の内容を表しています。時枝のいう入れ子形の立体的表現であり、≪こうした表現が短縮されて「ヨウダ」一語で表されるようになったもの≫などというのは正しい文の構造の解明ではありません。また、「ヨウ思われる」、「ヨウよ。」などと助詞や終助詞に接続する場合もあり、推量を表しているのは「ヨウ」なのです。

 このように、主観的という感覚的な捉え方を屈折語言語論の発想による主観的モダリティ論によって論証しようとしても日本語の膠着語としての本質を論理的に解明することはできません。■

  
Posted by mc1521 at 14:19Comments(0)TrackBack(0)文法