時枝が「そこには明かに陳述性が認められる」とする<助動詞>「だ」の連用形「と」と「に」を検討しましょう。次の用例が掲げられています。
月明かに、風涼し。(中止の場合、文語だけに用ゐられる)
元気に、愉快に、働いてゐる。(連用修飾的陳述を表す)
隊伍整然と行進する。(連用修飾的陳述を表す)
花が雪と散ってゐる。(右に同じ)
「今日は行かない」と云ってゐた。(右に同じ)
野となく、山となくかけまはる。
これについても、先の三浦つとむ『日本語の文法』の「第八章 <助動詞>の特徴をめぐる諸問題」の「二 時枝文法の<助動詞>論の特徴と問題点」で論じられています。時枝の活用に対する理解の誤りを指摘していますので以下に当該部分を引用します。
まず、「明か」「元気」「整然」などの語は属性表現ではあるが活用をもたないから、そのままでは文の終止に使えないわけであり、それゆえ<助詞>+<助動詞>と重ねた「に」「あり」→「なり」や「と」「あり」→「たり」を加え、「明かなり」「元気なり」「整然たり」と表現して来たことは周知のとおりである。この場合も、「に」「と」は依然<助動詞>であって、その下に重ねられる<助動詞>が零記号化しているもの、たとえば「月明かに(して)、風涼し。」「元気に(して)、愉快に(して)、働いてゐる。」「隊伍整然と(して)行進する。」のような省略があって、<形式動詞>から転成した<助動詞>「し」が表現されずにあるもの、と受けとるのが妥当である。「に」「と」それ自体が判断を示すのではなくて、その下に零記号の判断辞が存在するのである。註の中では、「一つとして上手に出来たものがない。」という例を上げているが、これこそ「と」ではなく下の「し」のほうが判断の表現である。つぎに「花が雪と散ってゐる。」は、文字どおりに受けとってはならないところに注意しなければならない。「雪」は比喩であって、散りかたをそのまま<情態副詞>で表現するなら、「花がサラサラと散ってゐる。」のようになろう。属性の立体的な表現であって、「雪」の実体は直接の関係を持たず、雪の属性をダブルイメージにして花の散りかたを想像させているのである。それゆえ「雪と」は「サラサラと」と同様に<格助詞>以外の何ものでもない。「雪」を<名詞>として文字どおりに受けとると、その下に判断が存在してそれが「と」であるかのような錯覚が生まれる。
野となく、山となくかけまはる。
ここでの「ない」は<打ち消しの助動詞>であるから、さきにも述べたように肯定判断の<助動詞>に伴って使われるべきものである。その肯定判断が「あらず」のように表現されないで、零記号になっているために、「と」それ自体が肯定判断であるかのように錯覚するのである。
ここでの註に、谷崎潤一郎の『細雪』が、「……と思ってゐた。と、ちょうどその時分、……」のかたちで「と」を使っているのを、やはり<助動詞>の例にあげているけれども、久保田万太郎の『春泥』や『市井人』が節の変わり目のところで、
が、立てるものは立て、押へるものは押へる由良の律儀さは以前とすこしもかはらなかった。
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と、その年もいよゝゝ終わろうといふ十二月の末になって、突然、萍人から、切手をペタゝゝ貼った、厚い、カナリの重みをもつた封書が速達でとゞきました。
のように表現していることも、考えてみる必要がある。これらは、すべて前の文ないし前の節の文と、後の文ないしこの節の文との思想と思想とを結合するために使われる語であって、<接続助詞>にほかならない。通常の表現では、「が」の場合には前の文の思想を判断辞の「だ」で受けとめて「だが」のかたちで使うし、「と」の場合にも前の文の思想を<形式動詞>から転成した判断辞「する」で受けとめて「すると」の形で使っている。『細雪』の場合は、この判断辞が省略されているから、時枝は「と」それ自体が判断を表現したものと錯覚したのであろう。
「今日は行かない」と云ってゐた。
の場合には、表現それ自体を単に一つの対象として扱って、云ったことばを忠実に示すものである。別のいいかたをすれば、音声それ自体の複写としての括弧内のことばである。それゆえ本質的には「ブクブクと沈んでいった。」のような、<擬声語>に加えられる「と」と同じであって、山田もいうように<格助詞>である。
<助動詞>には語形変化すなわち活用が存在するが、これも<動詞>の活用と同様に、それに結びつく語のいかんによって決定されるもので、内容と関係のない形式だけの変化である。けれども時枝は<動詞>の活用を判断辞の機能に相当するものと解釈しているので<助動詞>の活用だけを異質なものとして扱うわけにはいかなかった。「助動詞は、話手の立場の中、何等かの陳述を表現するものであり、そのことのために、助動詞は、多くの場合に活用を持つことになるのである。」と、結びつく語との関係ではなく<助動詞>それ自体の判断表現の内容から生まれたものであるかのように、こじつけたのである。
これで、<助動詞>「だ」の活用も明確になりましたので、この点も含め杉村論文の論理性を見直してみましょう。■