2015年03月29日

天の原……の歌:古田史学と松本深志高校

  話は逸れますが先日、古田史学の会より、『盗まれた「聖徳太子」伝承』(注)が届きました。興味深い記事ばかりなので早速読み耽りました。九州王朝説で知られる古田武彦氏の松本深志高校での講演「深志から始まった九州王朝―真実の誕生」(2014.10.4)が最初に掲載され、高校生からの質問で感動的な逸話が記されていました。

  古田氏は東北大学の日本思想史科を昭和23年に卒業し松本深志高校の教師として6年間を過ごします。88才の米寿を迎えての講演ですから66年程前の話ということになります。戦後の混乱期の一挿話です。
  高校性の質問は当時の生徒、つまり新米教師であった古田氏の教え子から依頼されたものでした。当時の生徒からの新米いじめとも言うべき質問が九州王朝探求の一契機となった経緯についてです。
社会科から国語を教えることとなり古今集の安倍仲麻呂の良く知られた次の歌を取上げた後に、生徒から新米教師が鋭い質問を浴びます。

   天の原 ふりさけ見れば 春日なる
        三笠の山に 出(い)でし月かも      安倍仲麿(7番) 『古今集』羇旅・406

 仲麿が明州(現在の寧波(ニンポー)市)で送別の宴が催された時に詠まれたとされるもので、NETでも次のように解説されています。
  天を見ると美しい月が昇っている。あの月は、遠い昔、遣唐使に出かける時に祈りを捧げた春日大社のある三笠山に昇っているのと同じ月なのだ。ようやく帰れるのだなあ。
 
  この説明に対し生徒から次のような質問が出されます。
 呉国から大和は見えるのか。ふりさけ見ればというのは、それまで宴会では皆西を向いていたのか。春日とは中国でそんなに有名なのか。なぜ、大和なる三笠の山と言わないで、春日なるなのか。
 現在でも似たような疑問がYahoo! 質問箱などで出るように、通説では割り切れないものが残ります。

 これに対し、新米教師は先輩教師の国文学専門家に助けを求めますが答があるわけもなく、「わからん」と言わざるをえません。この答えは質問を受けてから25年後に九州王朝探求の途次で得られることとなります。古田氏の説明を聞いてみましょう。

 これが解けたのは、質問を受けてから二十五年も経って、古代史の世界に入って対馬に船で行った時です。博多から壱岐を通って対馬へ船で向かった時、あるところで西に向きを変える。博多からずーと行きますと、対馬の西側浅茅湾へ入るには、大きい船は壱岐の北東側をまわって、そこの水道で、西に向きを変えるのがスムースなんです。船のデッキに出ていて、西向きの水道に入った時に博多方面を見ていた。たまたま目の前に壱岐の島があり船員さんに「ここはどこですか」と壱岐の地名を聞いたら、「天の原です」と言われてギョッとした。こんなところに「天の原」がある。確かに考古学的には壱岐に天の原遺跡があり、銅矛が三本出土したことぐらいは知らないではなかったが、その遺跡がどこにあるかは、確かめたことがなかった。ところが目の前というか目の下に、船の曲がり角のところに「天の原」があった。「天の原 ふりさけ見れば 春日なる三笠の山に 出でし月かも」、この歌が作られたのは、通説とは違って、ここ「天の原」ではないか。ここを過ぎれば、春日なる三笠の山は、もう見えなくなる。なつかしいふるさと日本は見えなくなる。
 その時は、もう九州の「春日と三笠山」については、一応知っていた。旧制広島高校時代の無二の親友といってもよい友人が九州春日市にいた。そこの家に泊めてもらって、福岡・博多湾岸を歩き回った経験がある。だから一応地理は知っていた。春日市、須玖岡本遺跡があるところ。三笠山、現在名は宝満山。仏教的な命名で後で付けられた名前。本来は三笠山という山がある。ここの三笠山は、三笠川が博多湾に流れていて、三笠郡がある。ですから「天の原 春日 三笠山」三カ所ピッタと結びついた。
 ところが、「天の原」があり、船のデッキから見ると、ドンピシャリ見えるというわけではないが、大体あの辺りが三笠山となる。しかも後で知ったことですが、振り返って見ると、目の前に三笠の山が二つある。金印の出た志賀島。そこにもそんなに高くはないが三笠山があり、他方は宝満山と呼ばれる三笠山がある。「筑紫なる三笠の山」と言えば、どちらか分からない。ここでは宝満山を三笠山に特定するためには、「春日なる三笠の山」と呼ばなければならない。
 たしかに仲麻呂は呉の国明州で、別れの宴でこの歌を歌ったでもかまいません。
 しかし、その場で作って歌ったのではなくて、日本を別れる時に作った歌をそこで歌った。
 これはわたしにとって、一つのエポックとなった。
 これは古今集ですが、やはり万葉集というのは、歌そのものを正確に理解することが第一。まえがきという状況説明は併せて理解する。つまり歌は第一史料、まえがき・あとがきという状況説明は第2史料である。そういうテーマまでたどり着いた。これが深志高校での経験です。

 こういう逸話が語り継がれる高校というのも素晴らしいものですね。そして、この「歌そのものを正確に理解することが第一」という古田史学の到達点は、時枝誠記の「学問研究の根本的態度は、方法論の穿鑿よりも、先ず対象に対する凝視と沈潜でなければならい」という発想そのものと言えます。■

 注:『盗まれた「聖徳太子」伝承―古代に真実を求めて・古田史学論集第18集』:古田史学の会編、明石書房刊、2015.3.25初版・第1刷。
  
Posted by mc1521 at 12:39Comments(0)TrackBack(0)歴史