ここで、時枝誠記の略歴を『国語学への道―時枝誠記博士著作選 Ⅱ』と、『国語学(時枝誠記博士追悼特輯) 72号 第七十二集)』(1968年:昭和四十三年三月三十日)の鈴木一彦稿「時枝誠記博士年譜」から纏めてみます。
明治33・12・6 横浜正金銀行サンフランシスコ支店長を務めた時枝誠之(もとゆき)の長男として東京神田に生まれる。読書家の父の影
響や上田万年の国語愛護の大文章に感激し中学生の時に国語の研究に一身を捧げる思いを抱き、父親の反対にも引き
下がることなく、岡山の第六高等学校に学び、頼山陽や吉田松陰の伝記を愛読して国語に殉ずる一個の国士を以って自
らを任ずるまで になる。
大正 11・4 東京帝国大学文学部国文学科に入学。上田万年、橋本進吉の下で学ぶ。
12・9 関東大震災。
14・4 東京帝国大学卒業、卒業論文「日本における言語意識の発達及び言語研究の目的とその方法」
14・6 第二東京市立中学校教諭
昭和 2・1・20 第二東京市立中学校依願退職
2・4・5 京城帝国大学助教授
2・5 叙従七位
2・12・21 語学研究法研究の為、英・独・仏・米の各国留学の命を受け出発。
4・9 叙正七位
4・10 留学より帰任。高藤太一郎次女桂子と結婚。
7・9 叙従六位
8・4 京城帝国大学教授
10・4 叙正六位
13・11 叙従五位
16・12 『国語学原論』(岩波書店)
17・7 叙正五位
18・5 東京帝国大学教授
18・6 文学博士
19・1 長女京子誕生
23・2 次女牧子誕生
24・8 国語審議会委員
33・4 早稲田大学講師
36・3 東京大学定年退官
36・4 早稲田大学教授
36・4 日本大学講師(昭39まで)
叙従四位
叙正四位
41・11 紫綬褒章受賞
42・10 叙従三位・勲二等瑞宝章
42・10・27 死去 享年六六
このように中学生で国語の研究に一身を捧げる思いを抱き、それに殉ずる一生でした。高校では剣道に励み、酒に強く、豪放であるとともに繊細なところをもたれていたようである。■
4・9 叙正七位
4・10 留学より帰任。高藤太一郎次女桂子と結婚。
7・9 叙従六位
8・4 京城帝国大学教授
10・4 叙正六位
13・11 叙従五位
16・12 『国語学原論』(岩波書店)
17・7 叙正五位
18・5 東京帝国大学教授
18・6 文学博士
19・1 長女京子誕生
23・2 次女牧子誕生
24・8 国語審議会委員
33・4 早稲田大学講師
36・3 東京大学定年退官
36・4 早稲田大学教授
36・4 日本大学講師(昭39まで)
叙従四位
叙正四位
41・11 紫綬褒章受賞
42・10 叙従三位・勲二等瑞宝章
42・10・27 死去 享年六六
このように中学生で国語の研究に一身を捧げる思いを抱き、それに殉ずる一生でした。高校では剣道に励み、酒に強く、豪放であるとともに繊細なところをもたれていたようである。■