2015年03月14日

言語の本質とは何か ― 2

  時枝誠記の『国語学原論』とソシュール批判 (2)

 先のソシュール批判でまず気付くのは、
概念と聴覚映像との聯合を以って精神的実体であるとし、これを、それ自身一体なる言語単位と考えて、「言語(ラング)」と命名した。

と指摘しているように、「聴覚映像との連合」とするところに音声第一主義のソシュールの言語観を見ることができます。これは表音文字の世界での発想であり、文字は音声に従属する表音記号レベルと見なすことになります。解説の前田氏が記す「音素、記号素、形態素、意義素、意味素と言った用語の増殖」を生む大きな要因となるものと考えられます。それは表意文字の世界である我々日本語の世界からみると奇異な観がします。

 また、「それ自身一体なる言語単位と考えて」、「言語(ラング)」と命名されたものは単純に考えれば単語ということになります。個別の実際に話される文となると「多様であり、混質である」というしかなく、これもまた我々の言語実感からすれば言語の一部分を絶対化し部分を全体とするものとしか思えません。そして、実際にはこのラングを運用し言語活動を行うことになりますから、いわゆる言語道具説となるしかなくラングは意志疎通の道具という位置付けとならざるを得ない論理的宿命を負うこととなります。ここからは「多様であり、混質である」言(パロール)やその意味を導きだすことは論理的に不可能であり、最初から断念していることになります。この点をソシュールの「言語(ラング)」を支持する人々は解明、提示する必要がありますが、それは不可能としか考えられません。

 このように見てくると素人目にも時枝の批判は極めて真っ当であると言えます。やはり、ソシュールのラングは現実に我々が言語と呼んでいる対象を正しく本質的に抽象したものとは考えられません。そして時枝は『国語学原論』の序で、
 言語の本質を、主体的な表現過程の一の形式であるとする言語本質観の理論を、ここに言語過程説と名付けるならば、言語過程説は、言語を以って音声と意味との結合であるとする構成主義的言語観或は言語を主体を離れた客体的存在とする言語実体観に対立するものであって、言語は、思想内容を音声或は文字を媒介として表現しようとする主体的な活動それ自体であるとするのである。①

 と、「言語過程説」を提起し言語を「思想内容を音声或は文字を媒介として表現しようとする主体的な活動それ自体である」とします。ここには確かに「多様であり、混質である」ところの「「思想内容」が含まれており言語の実体に迫る観がありますが、「活動それ自体」を言語としたり「過程」そのものを言語とするところには我々の実感にそぐわない点があり、これが言語過程説に不審を抱かせる点といえます。しかし、「言語(ラング)」という部分にしか過ぎないものを全体にすり替える誤りからは大きな一歩を踏み出していると言えます。しかし時枝はこの「言語(ラング)」が何であるかを明らかにすることはできませんでした。

 この言語過程説の意義を認め、「言語学のコペルニクス的転換」と評価したのが時枝の「最良の弟子の一人だと自負している」三浦つとむです。彼は「時枝誠記の言語過程説」で次のように記しています。
 時枝の言語過程説は、まだ充分理論的に仕上げられていなかった。彼の認識論と論理学の弱さにわざわいされて、機能主義的なふみはずしを克服できず、言語規範の把握や認識構造の説明にも混乱が存在していた。『国語学原論』のソシュール理論批判が、その重要な欠陥をつきながらも不徹底なものに終わったのも、その能力の限界を示すものである。けれどもこれらの弱点は、時枝理論が革命的な業績だということを否定するものではない。これまでも言語過程説にはいろいろな疑問や批判が投げかけられているし、的はずれのものも的に当たっているものもある。部分的な弱点を指摘するのはけっこうであるが、そこから時枝理論を軽視したり抹殺したりするのは行きすぎである。弱点を訂正し前向きに発展させる方向へすすむのが、われわれのとるべき道である。②

 この三浦つとむによる展開をたどり言語本質に迫ることとしましょう。その前に、三浦と時枝の出会いと批判勢力との戦いをみることから始めましょう。■

  注:①『国語学原論 (上)』岩波文庫 13P
    ②『言語学と記号学』三浦つとむ著 勁草書房 184P  
Posted by mc1521 at 22:37Comments(0)TrackBack(0)言語