三浦つとむとの出会いを見る前に、もう少し『国語学原論』に至る展開の跡を追ってみましょう。
略歴に見るように、大正11年4月に東京帝国大学文学部国文学科に入学します。12年9月には関東大震災が発生し、14年4月に卒業します。その頃の情況を卒業論文のタイトルである「日本における言語意識の発達及び言語研究の目的とその方法」という論稿で後年次のように回顧しています。これを読むと、彼が何を問題と捉え、どのような思索の末に三浦の言う”言語学のコペルニクス的転換”に辿りついたかが良く理解できます。(以下、引用は旧仮名使いを新仮名使いに改める。)
国語学の周辺をさまよいつつあった私にとって、突如として起こった関東大震災は、私の方向を、更に決定的にしてしまったやうである。私は自著「国語学史」(昭和十五年十二月岩波文庫刊)の「はしがき」に当時のことを次のように書いている。
わけても帝都を中心にした大正十二年九月の大震火災は、幾多の学問的宝庫を烏有に帰したのであるが、復興の声に立ち上がったものは、たゞに都市改正の計画や、高層建築の設計のみではなかった。校本万葉集が焼残りの校正刷から刊行されるという話、古典保存会が貴重古典籍の影印に、更に全力を尽くすであろうという話、「国語と国 文学」が最初の斯学の専門雑誌として生まれるという話は、当時学生であった我々に、大きな刺激を与えずにはおかなかった。荒涼たる都市、物情騒然たる空気の中で、明日の学問の復興の為に、静かに書物と対峙したことは悲壮でもあり、また感激でもあった。物皆蘇るという空気の中で、私も亦一切の末梢的な研究を捨てて、学問上の根本問題を思索する様に駆立てられた。それは国語研究の根本に横たはる「言語の本質は何か」の問題であった。国語学の周辺をさ迷いつつあった私にとって「言語の本質は何か」の問題は当然帰着すべき到達点であったに違いない。心理学に助けを求め、論理学によって解決しようとし、自然 科学対文化科学の問題から、国語学の帰属すべき科学の分野を求めて、遂に解決し得られぬ疑問を、私は卒業論文の中に次のように述べている。私にとって接実な当時の問題を、当時の言葉のままに帰すことにしよう。
国語学上の種々な分野、例えば文典上の問題、音韻、文字、仮名遣の問題、或は思想と言語の関係、或は方言及び言語の歴史の歴史的変遷の問題に対して穿鑿しようとする時、私に対して、先ず解決を迫る処の問題が現れて来る。それは「言語とは何ぞや?」の問いである。この問題を解決せずしては、私は今や一歩も末節の探求に進み入ることを許されない。例えば、音韻を論ずる場合においては、音韻は言語の音韻を意味するので物理学上の音響を取扱うのではな い。この両者は明らかに相違しているという。しかし経験の対象として取扱う時、何処にその根本の区別を認むべきであるか、私はその判断に苦しむ。(中略)また或る学者はいう。言語の内容即ち思想の方面は心理学によってこれを研究し、言語の外形即ち音韻は音韻学によって研究すべきものであると。(中略)私には猶疑問が残される。かくして出<来上がった言語学は、要するに心理学と物理学との寄せ集めに過ぎないのではなかろうか。言語の本質は果たして説明出来るであろうか。(中略)或るものは云うであろう。「言語の本質は言語を研究して後始めて明かになることであって、初めより『言語とは何ぞや』の問いを発することは、順序を誤ったものではないか。」と。しかし問者は「研究して始めて明かになるべき」その研究の対象は、、何ものを捉えてこれを観察せんとするのであろうか。(中略)問者は言語を研究しようとして、言語以外のものを、知らずして研究して居ったという惧れはなかろうか。(中略)考えて見るならば、我々の用いている「言語」そのものの概念が、極めて朦朧としていることに気が附く。言語学の周辺を探索しつつ、遂に私は「言語」なるものが極めて朦朧として、不明瞭な対象であるという自覚にまで到達したのである。ここにおいて、私は明らかに国語学の学問としての性格を問題としつつ、翻って、国語学の対象そのものに眼を転ずるに至ったことを知るのである。そこで私は、次に、言語の本質について、大胆な仮説的断案を下したのである。
この問題を考えて、私は言語は絵画、音楽、舞踏と等しく、人間の表現活動の一つであるとした。然らば言語と云は れるものは、表現活動として如何なる性質を持つものであるかを考えて、始めて、言語の本質が、何であるかを明らかにすることが出来るであろうという予想を立てたのである。田辺元博士は、自然科学の対象の性質について、その著「科学概論」(二一六頁)の中で、対象の統一が空間的に分界せられ、多少の時間的同一の属性を保持するものとして、それは、夫々個物として認識せられ、観察を容易ならしめていることを述べて居られるのを見た。これに対して、言語はどうであろうか。私はこれを次のように考えたのである。
然るに精神科学或は文化科学の名によって包括される一群の対象は、明かなる如くであって実は漠然として把促し 難いものであることを感ずる。今、言語の場合を考えて見るのに、言語と称せられる経験は何であるか。観察の対象は何で あるか。紙の上に書かれた文字であるか。耳に入り来る音声であるか。脳裏にある思想であるか。我々は観察;の焦点を向けるべき方向に迷わざるを得ない。かくの如き対象の認識の困難なことは、言語研究史の上に明かに現れている。ある者は文字を以って言語と心得、ある者は音声を以って言語とし、ある者は言語をもって一つの独立した実在の如く考えて居った。しかも猶これらの研究は、我々の常識に有する「言語」という言葉すら、完全に説明して居らぬように思われる。思うに言語の本質は、音でもない、、文字でもない、思想でもない、思想を音に表わし、文字に表わす、その手段こそ言語の本質というべきではなかろうか。 ここにおいて、言語学の対象は、音響学の対象とはあきらかに区別せられるであろう。言語学者が音声を取扱うのは、音声そのものが対象の如く見えて実は然らず。音声を仲介として思想の表さるるprocessである。(『国語学への道―時枝博士著作選Ⅱ』昭和51年6月 明治書院刊 25p~)
ここに、若干22才の時枝が言語過程説の基本構想に到達したことが示されています。これがソシュールはもちろんのこと、それ以後の現在の言語学、チョムスキーの生成文法、ジョージ・レイコフ、ロナルド・ラネカーの認知言語学、マイケル・トマセロの認知心理学がいまだ至り得ない言語本質に対する考察であることは明らかでしょう。■