2015年03月20日

言語の本質とは何か ― 5

   時枝誠記の言語過程説(3)

 言語を「音声を仲介として思想の表わさるるprocessである」とする観点に至った時枝は、これを具体化するための細目を具体化し、助教授の橋本進吉の意見を聞き、問題を「日本における言語意識の発達及び言語研究の目的とその方法」に絞り研究に着手する。そして、橋本より次の助言を受ける。
日本の言語研究は今日から見て余りありがたいものではないから、多くを期待せず、捨て読みをする積りで取りかかることが肝腎である。
橋本自身、言語学科の出身であり国学等の成果をどのように見ていたかが伺われる。これに対し、時枝は、
 今の場合、それは問題ではなく、そのような幼稚な考え方がどうして出て来たか、また、それがどういう風に発展して行ったかを、ただありのままに追及してみたい。
と、応え計画えの賛意とそれとなく激励の言葉を与えられたことを記している。これは、対象を既成概念で解釈するのではなく、まず、あくまで対象そのものを反省的に捉えようとする時枝の発想を良く表わしている。

 この研究を関東大震災のため学生に使用が許されない帝国大学の図書館で行うことができず、東京の南葵文庫と京都帝国大学の蔵書と、その図書館で進めることになる。この過程で、イエスペルセンの『言語』(Language.1992刊)で始めてヨーロッパの言語学史を学び、言語学史を言語に関する問題史として取扱った態度に感銘を受けている。ここでも、次のように記している。
 学問研究が、方法論的に一の技術に固定しようとするとき、我々は再び立ち返って、対象に対する素朴な心の燃焼から出発することは大切なことである。私はイエスペルセン氏と共に「言語の本質とは何か」の問いを発するところから始めようとしやのである。そして、その回答を各時代の先覚に求めようとしたのである。国語学を国語に対する自覚的反省の体系と見るならば、私が今求めようとするところのものは、そのような自覚反省の展開史であり、即ちそれは国語学の歴史であり、いわゆる国語学史である。私は現代国語学の体系を、国語学史の展開の最先端に求めようとしたのである。ここに、私の国語学の方法論が存在するのである。
このような自覚のもとに、従来世に行われている国語学史に厳正な批判の眼を向け、「①現代の言語理論を以って、過去の研究に筆誅を加えることではなく、②国語研究の国学への依存の関係を無視して、国語研究を、一個独立の科学として批判を加えようとすることによって、国学史は第二の過誤を犯し、国語学史の如実の姿を見失うと同時に、そこに取上げられた重要な問題の幾つかを、看過することになった」と指摘し次のように続ける。
 私の国語学史は、敢えて新奇をてらうものではない、その根本思想は極めて平凡なものであった。これを譬えていぬならば、赤子がようやく独り歩きをするようになった時、成人の歩き振りと比較して、そのよちよち歩きを笑うようなことを止めよというのに他ならない。寧ろ昨日よりも今日の上達を認め、更に明日の進歩を助長させることを願おうとするのである。
 この平凡極まる歴史叙述の原理に立って、私は、我がてにをは研究の源流の中に、幼稚な品詞分類法の萌芽よりも、係り結びの法則即ち文における首尾呼応の現象の発見を、真淵の五十音連続図に、活用図を認めるよりも、音義学的研究の萌芽を、用言の活用研究の真意が、語と語との断続の研究にあることなどを認め得て、我が国語研究史をヨーロッパ言語学の理論或は問題を以って批判することは、あたかも葡萄酒を以って日本酒を批判するにひとしいものであることを知るに至った。そして、これら国語学史上の問題は、いはば日本語の特質の投影として、国語認識の重要な足場であることを次第に自覚するに至った。
 日本人が、日本語をどのように見たか。また、日本語を通して、言語をどのように思索したかということが、明治の時代の到来と共に一切忘れ去られ、捨て去られたということは、国語学にとって惜しいことでならない。日本語を通して言語学に寄与すべかりし可能性が、一切断ち切られて、逆に西洋人が西洋語を見た理論を以って、国語を律しようとすることが新しい国語学の方法論となったのである。国語学史と国語学、そして西洋言語学と国語学、これらの関係について慎重な考慮を回らすということが、国語学にとって極めて大切なことと考えられて来たのである。 古い国語研究の跡を顧みるということは、古きを尋ねて新しきを知るとか、短を捨てて長を取るとか、国粋主義か国際主義課というような、単なる人生観の問題ではなく、学問の方法論として極めて大切なこととなって来たのである。
 このような問題意識を抱いて卒業後、略歴にある通りまず第二東京市立中学校教諭となり、昭和2年に京城大学助教授に転ずる。そして語学研究法研究の為、英・独・仏・米の各国留学の命を受け出発し、ここでまた更に認識を深めることになる。
 それを見た後に、この「あたかも葡萄酒を以って日本酒を批判するにひとしいもの」である対象の本質を軽視した学問が国語学だけの問題ではなく、近代日本の根深い問題であることを明らかにしたい。■

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