2015年03月15日

言語の本質とは何か ― 3

   時枝誠記の言語過程説(1)

 言語の本質を問うため、少し飛ばし過ぎの感があるのでもう少し時枝の言語過程説を見てみましょう。
 ソシュールのラングを私は安易に単語と呼んでしまったが、単語は文との関係で定められる文法上の用語であり、言語本質観なしに単語とは何かを定義することはできない。時枝は『国語学原論』の「第三章 文法論―言語に於ける単位的なるもの―単語と文―」で単語を論じているが、「第一篇 総論 2 言語研究の対象」では、辞書と語彙について次のように説明しています。
  辞書は語彙の登録であって、ここに我々は主体的活動を離れた言語の記載を認め得るようである。しかしながら詳に考えて見るのに、辞書に登録された語彙は、具体的な語の抽象によって成立したものであって、宛も博物学の書に載せられた桜の花の挿画のようなものであって、具体的個物の見本にすぎないのである。辞書は具体的言語にたいする科学的操作の結果出来上ったものであつて、それ自身具体的な言語ではないのである。辞書の言語の如きものが主体の外に実在し、我々はこれらの語を運用するに過ぎないと考えるならば、具体的な経験を無視して、科学的に抽象された結論をその学の対象と考えることとなって、既に述べた言語研究の根本的な態度に反するのである。我々は何処までも具体的な経験に即してこれを対象とし、そこに理論と法則を求めなければならないのである。辞書の言語について猶一言加えるならば、先に私が辞書を語の登録であるといったのは、厳密にいえば正しい云いかたではない。辞書は語を登録したものではなくして、言語的表現行為、或は言語的理解行為を成立せしめる媒介となるものに過ぎない。例えば、辞書に「あなづらはし」と標出されていても、それ自身は、語とはいひ得ないのであって、単なる文字であり、厳密にいえば線の集合に過ぎないのである。しかしながら、この標識とそれに加えられている説明、釈義等によって、辞書の検索者は一の言語的体験を獲得することが出来るのである。この様に見て来るならば、辞書に言語が存在するということは、尚更いい得ないこととなるのである。① 
 と、あくまで「具体的な経験に即してこれを対象とし、そこに理論と法則を求め」る唯物論的な科学観を主張している。そして主体的活動の中にこそ言語の本質を求めねばならないことを説いている。先に単語と呼んだのは語彙と言うべきで、これは言語ではなく語を運用するに過ぎないとする考えを批判しています。この辞書の検索者の「一の言語的体験」についてはもう少し具体的な説明をしないと理解し辛いところがありますが、それは後で三浦つとむの説明を聞くこととします。
 さらに、主体的活動ということで言わんとしていることを理解するために、この「2 言語研究の対象」の次の説明を見ます。
  最も具体的な言語経験は、「語ること」「聞くこと」「書くこと」「読むこと」に於いて経験せられる事実であって、この様な主体的活動を考えずして、我々は言語を経験することは出来ないのである。或はいうかもしれない、我々が「聞いたり」「読んだり」することに関せず、我々は言語の存在を考えることが出来るではないかと。勿論我々が耳を閉じ、目を閉ずることによって、日本語の存在が無くなるとは考えられない。しかしながら、その時考えられている日本語は、やはり我々以外の第三者甲乙丙丁によって語られたり、読まれたりすることによって存在しているのである。如何なる人によっても語られもせず、読まれもせずして言語が存在していると考えることは単に抽象的にしか言うことが出来ない。即ち「我」の主体的活動をよそにして、言語の存在を考えることは出来ないのである。自然はこれを創造する主体を離れてもその存在を考えることが可能であるが、言語は何時如何なる場合に於いても、これを産出する主体を考えずしては、これを考えることが出来ない。更に厳密にいえば、言語は「語ったり」「読んだり」する活動それ自体である。② 
 と、ここでも言語は「語ったり」「読んだり」する活動それ自体であると強調されている。たしかに話者、書き手、小説等では作者なしに言語は存在せず、極めて真っ当な説であり、後に詳しく究明するが現在の国文法や日本語文法なるものは辞書に言語が存在する言語実体観を背景に単語の集まりが文となる法則を求める結果となっており、時枝の言う「宛も博物学の書に載せられた桜の花の挿画」のように扱っているのです。そこからは単語の定義一つ出来ず、品詞の定義もないままに文を論ずるというアクロバットを演ずる他なくなります。しかし、音楽活動が音楽そのものではなく、絵画活動や写真活動が絵画や写真そのもでないこともまた明かであり、言語を「活動それ自体」とするところに時枝の言語過程説の論理的躓きがあるのも明らかです。 この点を正すのは三浦つとむによる唯物弁証法に基づく展開を待たなければなりません。■

  注:①『国語学原論 (上)』岩波文庫 29P
    ② 同上 28P

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