前回の「英文法に見るテンス解釈(6)」には若干勇み足があり訂正いたしますが、基本的には、これまで述べた所に尽き、先も見えているので、今回は著者らが依拠する生成文法の根本的誤りを初期の著作『統辞構造論』により指摘しておきましょう。
題記新訳が出ていますので、これによります。「第2章 文法の独立性」から引用します。(句読点は和文のままとします。)
2.1 以下では、各々が有限の長さを持ち、また、要素の有限の集まりから構成される文の(有限あるいは無限の)集合として言語(Language)を考えていく。全ての自然言語は、書かれたものであろうが話されたものであろうが、この意味における言語である。なぜなら、個々の自然言語には、有限の数の音素(あるいは、アルファベットの文字)があり、文の数は無限ではあるが、各々の文はこれらの音素(あるいは、文字)の有限列として表示されるからである。
ここには屈折語としての英語を、アプリオリに実体視した形式主義言語観が宣言されています。屈折語としての英語文は文頭を大文字で始め、個々の単語は分かち書きされるので、語の区分も明確であり、文末はピリオドがおかれるので形式的な文の形が明確です。しかし、音素の有限列として表示される形が文なのではありません。アルファベットの形をしたクッキーを、子供が楽しそうに無造作に並べた列を文と呼ぶことになってしまうしかありません。
膠着語である日本語の場合には、文の先頭も明確でなく、単語の切れ目も明確でないため、仮名文字が並んだ場合には読み誤りや、読めなかったりするのは日常茶飯事です。そもそも、文がアプリオリに無限に存在するわけがありません。文は話者が対象を認識し、文法を媒介として表現することにより生まれるので、個々の話者の認識の表現としてしか存在しない一回限りの表現でしかないのは自明です。
生成文法とは、このような誤った形式主義言語観に依拠しているため、本書のマルコフ連鎖、句構造文法から変形生成文法と当然の失敗の連続で、その都度この根底の誤謬に戻って顧みる事なく、毎回条件の抽象化によって問題を極限化しXバー理論、極小モデルへと暴走しているに過ぎません。当然、意味を扱うのは不可能なため、認識を認知に矮小化した認知言語学が生まれることとなったのです。先の文に続き次のように記しています。
同様に、数学の形式化されたシステムがもつ「文」の集合もまた言語と見なすことができる。言語Lの言語分析の根本的な目標は、言語Lの文である文法的(grammatical)列を、Lの文でない非文法的(ungrammatical)列から区別し、文法的列の構造を研究することである。従って、言語Lの文法とは、Lの全ての文法的列を生成し、非文法的列を1つも生成することがない装置ということになる。