2015年09月20日

「天の原 ふりさけ見れば…」― 万葉学の現在

  「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」(ヘーゲル『法の哲学』・序説)

  3月の記事で、「天の原」の古田武彦氏による解釈を取り上げましたが、9月19日(土)の朝日新聞「be」に(匠の美)御蓋山 平城びとの月という、奈良大学教授 上野誠氏の記事が掲載されましので、先の解釈と比較してみましょう。まず、冒頭に記された歌です。

  天の原ふりさけ見れば春日なる御蓋の山にいでし月かも  (『古今和歌集』巻九の四〇六)

 日本古典文学大系8『古今和歌集』(佐伯梅友校注、岩波書店・昭和33年3月5日第1刷発行、昭和38年10月15日第5刷発行)は次のようになっています。(ブログ「小さな資料室」より)

    もろこしにて月を見てよみける         安      麿

   あまの原ふりさけみれば かすがなるみかさの山にいでし月かも

 上野氏の解釈は、伝統的な解釈で次のようなものです。

 天空を振り仰いでみると、春日にある御蓋の山に出ていた月が思い起こされる、と訳すことができようか。春日野からおにぎり形に見えるのが御蓋山だ。その後にあるのが、春日山。だから、春日にある御蓋山と歌うのだ。

  この記事には飛火野で撮影された写真が掲載されており、標高294.mの御蓋山が中央に小さく写っており、周囲には草をはむ鹿の姿が小さく写っています。月が今にも昇る所が写されていますが、それは、古田氏が講演<『万葉集』は歴史をくつがえす>で次のように述べている事実をありありと示しているのです。

  オンフタヤマ(御蓋山)と書いてミカサヤマと読むんです。これが現地の地名としてのミカサヤマなんです。春日大社の裏山に当っていて、高さ二百九十四・一メートル、これは教育委員会で教えて貰った数値で、地図には普通ここまでの数値は出ていませんが。ふもと近くにあるのが三笠中学。この山はあまりに低すぎるのですね。大和盆地そのものの標高が百メートルほどあるので、みかけの山の高さは二百メートル弱。ここから月が出るのはむずかしいですね、なぜなら、そのすぐ東側に、春日山とか高円(たかまど)山とかの高い山がある。そうすると月は春日山とか高円山から出るじゃないですか、まさか春日山から出て、また入って御蓋山から出るわけじゃない(笑)―― そこから出るのならわかる。だから月が出るのは、春日の山にとか、高円山にとか言ってほしい。 

写真では、正に「春日山とか高円山から出」ている所なのです。古田氏が明らかにした「みかさの山」とは次のWikiの記事にある御笠山、宝満山です。

  宝満山(ほうまんざん)(標高829.6m)は福岡県筑紫野市と太宰府市にまたがる山であり、別名を御笠山(みかさやま)、竈門山(かまどやま)とも言う。

 そして、次のように述べています。

  結論としてここ、奈良の歌ではない。だから阿倍仲麻呂が日本を離れて、壱岐の「天の原」で、月が上がるのを見て作ったとすると、よくわかる。ここで船は西むきに方向を変えるので、島影に入ると九州が見えなくなる。で、ふりかえって見ると、春日なる三笠の山がある。三笠の山は志賀島――金印で有名な――にもありますのでね、目の前に二つの三笠山がある。「筑紫なる」といったのではどちらの三笠山か分らぬ。宝満山なら「春日なる三笠の山」でよい。ですから全部の条件がピシャピシャと合ってきた。こうして解けてきた。そうすると、間違っていたのはまえがきの方だった。

 たしかに、仲麻呂は明州で、別れの宴で、この歌を歌ったと思いますよ。しかし、その場で作ったのか、前から作っておいたのを詠じたのかは別の問題。日本の使いが帰ってきて、この歌を伝えたのでしょう。しかし、そこ明州で作ったというのは編者の解釈、実は間違っていた。編者の頭には大和の三笠山しかなかった。のちの人は、まえがき、あとがきをもとにして解釈しようとしたから苦しんできた。歌は直接資料、まえがき、あとがきは編者の解釈で、間違っているかもしれない。この原則を確認したのが、この歌だった。

  それは上野氏の解釈で、「天の原ふりさけ見れば」を「天空を振り仰いでみると」と解釈する他ない空虚さにも明らかです。

  古田氏は、「歌は直接資料、まえがき、あとがきは編者の解釈で、間違っているかもしれない。この原則を確認した」のち、これを万葉集に適用し『古代史の十字路 万葉批判』を20014月に公刊しました。この書の第一章が<疑いの扉「天の原」の歌」>です。氏は、講演「君が代前ぜん」で次のように述べています。

 この『古代史の十字路』(東洋書林)という本は万葉集を研究されている学者の皆さんに送りました。有名な人の中では中西進さん。近くに住んでいますから本をお送りしたことをお電話しました。また大野晋さん。かって対談したこともありますので、よくご承知です。同じくお電話しました。ですがどの人からも、まったく返事はない。答えはない。答えれば古田は、雷丘を九州だと言っているが、近畿大和のあの丘でよいのだ。このように説明すれば、十分理解できるのだ。そのように言えばよい。あるいは九州雷山であるという説では、このような理由でダメだよ。おかしい。そう言えばよい。何回も同じことを言いますが、わたしは、別に九州雷山をひいきにしているわけでは、まったくない。事実を事実として捕らえる、わたしが納得できれば別に大和飛鳥でもかまわない。しかし大和飛鳥ではまったく合わない。その立場です。

それに、この本は幸いにも版を重ねていますが、新聞の書評が一回も出ない。大体書評は、新聞社から依頼された専門家が書くものです。今言った論理が一杯詰まっているので、書けばどこかに差し障りが起こるから誰もいやがって書かない。ノーコメントであるとかってに想像して思っている。あれだけ書評が新聞に出ていて、今述べた問題がつまらないことには思えない。後生の人から見れば、なぜ書評が出なかったのか研究の対象になるのでは。

  中西進氏に長年にわたり畏敬の念を抱く上野氏としては、師の説になずむしかなく「已んぬる哉」である。宣長の『玉勝間』の一節を引用したくなるところですが。「なぜ書評が出なかったのか研究の対象になる」のは未だ機が熟していないようです。

しかし、これこそ安倍晋三の唱える「戦後レジューム」の実態ではないのか。その超克の先にしか未来は考えられません。■

  
Posted by mc1521 at 14:59Comments(0)TrackBack(0)歴史