これまで、日本語の時制の解釈の結果、「時間は、過去、現在、未来の3つがありますが、それらを表す時制は2つだけで、「未来時制」というものはないことになります。また、動詞の現在形が現在時と未来時を表すわけです」という結論を導く過程の誤りを見て来ましたが、ここでは「英語の場合も、動詞の現在形は、現在時と未来時の両方を指すことができます。次の例を見て下さい。」と文例が挙げられます。
b.Taro understands French. [現在時]
(13)a.He leaves for London tomorrow. [未来時]
b.Taro graduates from college next year.[未来時]
これらは、先に見た日本語の文に対応しており、(12a,b)は話し手や太郎の現在の状態を、(13a,b)は彼や太郎の未来の動作を表しており、動詞の現在形が、現在時と未来の両方を表わすことが分かります(【付記4】参照)。と、記し、「そうすると、英語も日本語と同じように、未来時を表す要素はなく、時制は2つで、現在時制が現在時と未来を表すと考えてよいのでしょうか。」と疑問を呈し、次のように論を進めます。まず、(13a)を再掲し、willを用いた文でも表現されることを示します。
a.He leaves for London tomorrow. [未来時](=13a)
b.He will leave for London tomorrow. [未来時]
そして、この両者の違いが次のように説明されます。
それは、a.が、彼の明日のロンドン出発がすでに確定しており、話し手がそれをもはや変更の余地のない確実なことだと見なしているのに対し、b.は、彼の明日のロンドンへの出発が、a.ほどには確定したものではなく、「明日はロンドンへ出発するだろう」という、話し手の推量、予測を表わしています。そして、重要なことは、彼がロンドンへ出発するのは未来時(明日)に起こることですが、話し手がそう述べているのは、発話時の、つまり現在の予測だという点です。
この、b.に対する説明は正にその通りの正しい説明ですが、a.の場合leavesと3人称単数現在になっており、話者は明らかに「Heのロンドン出発」という事態に現在として対峙していると見なければなりません。従って、「話し手がそれをもはや変更の余地のない確実なことだと見なしているの」は発話時の、つまり現在ではなく、未来の「Heのロンドン出発」という事態に現在として対峙している観念的に自己分裂した話者であると見なす他ありません。そして、そこから現在に戻り「Heのロンドン出発」が明日のことであるのを確認し、tomorrowと言っていることになります。「話し手がそれをもはや変更の余地のない確実なことだと見なしている」のであれば、tomorrowと言う必要もないのですが、そのばあいは正に、「He leaves for London.」となります。そうでないと、著者がb.の説明で現在の予測を強調している事実と整合しません。話し手の観念的自己分裂と移動なしに単に確信の相違だけではa.はあくまで現在の表現にとどまるしかありません。つまり、著者がはしなくも説明している通り、b.は「彼がロンドンへ出発するのは未来時(明日)に起こること」(強調はブロガー)を表現しているということです。
このような時制表現の本質を捉えられない説明の誤りが、本書の「第3章 現在形は何を表すのか?(2)」で露呈し、次のように記しています。
動作・出来事動詞の現在形の実況的報道機能は、特殊なコンテキスト(たとえばスポーツの実況放送)にしか用いられない機能で、文法学者たちによってあまり観察されてこなかった機能ですが、私たちは、この機能が、歴史的現在形の基盤になっているものと考えます。
それは、現在形が,(11a-c),(12a,b)[現在形で未来の事柄を表している文例:ブロガー注]で述べる未来の動作や状態を、あたかもタイムスリップをして、現在起こっている動作や状態であるかのように描写しているためです。歴史的現在が、過去の事柄を現在形で表現し、それがあたかも現在起こっているかのように描写するものであることを先に述べましたが、(11a-c),(12a,b)は、このちょうど逆で、未来の事柄を現在形で表現し、それがあたかも現在起こっているかのように描写しています。