2015年09月30日

上野誠 著『遣唐使 阿倍仲麻呂の夢』に見る粗雑な鑑賞 (3)

 王維の本来の題が「送鼂監歸日本」であったものが「送祕書晁監還日本國」と「帰」が「還」に変えられています。

 これは、よく知られている通り別離の宴を催し「日本=ヒノモト」へ帰るべく出帆したのですが、途中台風に遭い船はヴェトナム方面に流され、結局唐へ戻る結果となってしまいます。そして、故国へ戻ることなく唐で没します。つまり、この事実を知った後で、往還の「還」の方がより適切との判断で直されたものといえます。これらの経緯を古田氏は次のように記しています。

  現在、この王維詩中の「九州」に対する“一般的理解”は、「九州=全世界(中国を含む全領域)」のようである。(中国を「赤県神州」と称し、その一とする。『史記』鄒衍伝)

 確かに、王維がこの「神仙的な超九州」概念を“意識”していたことは「万里空に乗ずるが若し」の表現からもうかがえよう。

 しかし原型たる極玄集のしめす「九州何処所」の表記は、やはり「具体的所在」としての「九州」であり、漠たる“不特定の拡がり全体”の称ではない。

 だからこそ後代(北宋・何宋代)の版家・校家はこの「所」の一字をきらい、「遠」や「去」へと“改ざん“すべき必要性があった。そのように率直に理解すべきではあるまいか。

 唐詩選のしめすところ、それは明らかに“改ざん”型であり、従来の注解・翻訳者のほとんどはこれに意を払わず、空しく「全世界」視してきたのである。

  この『遣唐使 阿倍仲麻呂の夢』の著者である上野誠氏も5年前の古田氏のこの指摘を無視し“改ざん“型を踏襲しているのです。その結果、仲麻呂を大和、奈良の出身とすることになり『古今和歌集』の、

  天の原 ふりさけ見れば かすがなる みかさの山に 出でし月かも

の歌の理解もまた誤る結果となってしまっています。

 著者は、「歌の聞き手と読み手には、今、作者がどこにいて、どこから、どこに出た月を見たかは、明示されていないのである。明示されているのは、昔、春日にある御蓋山の月を見たということだけである。」とし、これを推理するところにおもしろさがあるとします。さらに、左注にもとづき、

   仲麻呂が唐土の明州というところで、帰国送別宴の折に見た月。だから海辺の月ということになる。

  具体的に日時は確定できないが、留学の前に見た故郷の月、ということになる。

 と解釈します。しかし、この解釈では、「天の原」が単なる天の空となり、「ふりさけみれば」との繋がりも不明です。「かすが」「みかさ」との内的つながりも不明な散漫な歌となってしまいます。これでは、かつて古田氏が高校で教えた時、生徒から問い詰められた「春日っていうのは、中国でみんなが知っているそんなに有名な場所なんかい?」「なんでだ?」「なぜ、大和なる三笠の山と言わんのだい? 春日の方が有名なんかい?」という問いに答えることはできません。先にも記した通り、事実は古田氏が「『万葉集』は歴史をくつがえす」で述べた次の通りとなります。

  結論としてここ、奈良の歌ではない。だから阿倍仲麻呂が日本を離れて、壱岐の「天の原」で、月が上がるのを見て作ったとすると、よくわかる。ここで船は西むきに方向を変えるので、島影に入ると九州が見えなくなる。で、ふりかえって見ると、春日なる三笠の山がある。三笠の山は志賀島――金印で有名な――にもありますのでね、目の前に二つの三笠山がある。「筑紫なる」といったのではどちらの三笠山か分らぬ。宝満山なら「春日なる三笠の山」でよい。ですから全部の条件がピシャピシャと合ってきた。こうして解けてきた。そうすると、間違っていたのはまえがきの方だった。

 たしかに、仲麻呂は明州で、別れの宴で、この歌を歌ったと思いますよ。しかし、その場で作ったのか、前から作っておいたのを詠じたのかは別の問題。日本の使いが帰ってきて、この歌を伝えたのでしょう。しかし、そこ明州で作ったというのは編者の解釈、実は間違っていた。編者の頭には大和の三笠山しかなかった。のちの人は、まえがき、あとがきをもとにして解釈しようとしたから苦しんできた。歌は直接資料、まえがき、あとがきは編者の解釈で、間違っているかもしれない。この原則を確認したのが、この歌だった。

  このように判明すれば、唐に向かう船が壱岐の「天の原」(遺跡の近く)に近づき、大宰府方面を振り返り故郷の「春日なる三笠の山」に出た月を詠んだのであり、各語が緊密に結びついた名歌であることが明らかになります。■

  
Posted by mc1521 at 12:40Comments(0)TrackBack(0)歴史