2015年11月08日

助動詞「だ」について(6)

言語学論叢 オンライン版第 3 号 (通巻 29 号 2010)
   語とは何か。(5)

 三浦つとむ「語の分類について ― 二 時枝誠記は客観主義に反対する」の引用を続けます。(注は省略)

 英語学者の空西哲郎はつぎのような分類表を提出した。

 

 

体 言

名 詞

代 名 詞

形式名詞

 

用言

動   詞

形 容 詞

付 属 動 詞

付属形容詞

付属用言

 

副  詞

 

助  

接 続 詞

 

  体言は「もの」「こと」を表す語であるが、名詞の「机、人間、花」は総称的、共時的、一般的な語であって、それだけで独立した意味を有している。ところが代名詞の「それ、かれ、君」は文脈(context)や環境(situation)を抜きにしては意味がはっきりつかめないものである。言い換えると、代名詞は名詞と違って、独立性の乏しい語である。つまり辞である。……代名詞が辞であるのは、たとえば「それ」「かれ」がそれだけで独立して使えないからというのではなく、「それ」「かれ」がそれ自体では、名詞のような総称的、共時的、一般的な意味を伝えることができないからなのである。ところが、形式名詞が辞であるのは、たとえば「こと」「もの」が「……ということ」「……するもの」というふうに、他の語句につづかなければ使われない語、という意味で言うのである。辞といわれるものは、この後の意味で用いられるのが普通であろうが、代名詞を辞とみることも、独立性の乏しい点では、不当ではあるまいと思う。

 空西が<付属動詞>と<付属形容詞>、またはひっくるめて<付属用言>とよんでいるのは、いわゆる<助動詞>である。英語学者が日本語を論じるときには、英語の文法がプロクルステスの寝台になって、膠着語の表現構造が屈折語的に切断されることが多いが、空西の扱いかたもそうである。日本語における<活用>は英語の「屈折」に近いものと解釈され、<接尾語>の「れる」もこれまた<動詞>の<活用>の形態にぶちこまれる。明治二十二年に大槻文彦が批判した「洋文法ノ忠臣」と同じことを主張しているわけである。

  「子供たち」の「たち」は接尾語としてcodeから切り離し、「お手紙」の「お」は接頭辞としてcodeから切り離す。このような接辞は語としては取り扱わないから、品詞を決める必要もないのである。

 これでは日本語の膠着語としての特徴に規定された語彙である、敬語についての体系的な理論は出てこない。「おみ足」という場合には、「足」に古い敬語の「み」だけでなく、さらに口語の敬語「お」を加えて強めた、敬語の重加である。「お」「み」がそれぞれ一定の意味を持つからこそこのような表現がなされたのである。「で」「ある」と判断の<助辞>を重加するのと似ている。これに対して「おみくじ」は、はじめわれわれのこしらえる「くじ」に対して神社仏閣のそれを敬語化し、「み社」「み仏」というのと同様に「みくじ」と言ったのであろうが、口語で「お」を加えることによって「み」は敬語の意識を失い、いわば「籤」から「籤」に、特殊なくじの意味に変わったものと考えられる。「おみき」「おみこし」も同じであろう。

 山田ないし橋本流の発想は、独立非独立を基準とする点で形式主義ということができるが、形式主義としては中途半端であり、さらに極端におしすすめたところに位置づけられるのが、かつての松下大三郎と現在の教科研の文法論である。橋本は、山田文法と松下文法とを部分的にとりいれたのであって、松下のように極端なところへまでは行かなかった。橋本は、音声で表現するときに実際に区切って発音される部分を一つの単位としてとりあげて、これを<文節>とよんだ。右の時枝の説明にもあるようにこの文節を構成する語をさらに独立非独立で区別して、詞と辞と名づけた。松下は橋本のいう<文節>それ自体を一品詞と見て、これを詞とよび、<助詞><助動詞>のようなものはこの詞をつくる材料(原辞と呼ぶ)でしかないから、一品詞とは認めなかったが、橋本はそこまで伝統的な文法論から逸脱しなかったわけである。ところが教科研文法は、橋本文法の批判者として登場し、これを事実上松下文法的に改作して、われこそ科学的文法なりと主張しているのである。教科研文法では、橋本のいう<文節>それ自体を一語と解釈し、橋本文法の<付属辞>や<補助用言>はすべて一語とは認めない。「学生ではなかったでしょう。」も<名詞>の<用言なみの語形>で一語であると規定する。

 時枝は山田ないし橋本流の発想と対立して、その形式主義を拒否しながら同様に一つの語とは何かを検討した。彼は『国語学言論』において、言語を表現主体の活動から切りはなして「専ら客体的表現として考えようとする処の主知的立場」、正しくいえば客観主義が言語学において伝統的なものであることを指摘し、つぎのようにその弱点をついて客観主義からの脱却を主張する。

  か々る見地に立つ処の単位としての単語の本質は、一方には概念単位によって決定せられ、他方音声群によって分割せられるとする。概念および音声は、相互に相手方としての役割を持ってゐる。こ々に一方には思想的単位を以て単語認定の基準とする内容主義が成立し、他方には音声群の終止や音調を以て基準とする形式主義が対立する。音声・概念の結合を以てする構成的言語観に立つ限り、右の二の対立は避けることが出来ない。》

  劉 雅静氏の論文では時枝のこの主張は無視され、<表1「だ」を「助動詞」と見なす先行研究>のなかに、<「だ」は独立して一文の文頭に用いられないことや独立せず、常に他の語に伴って現れるといったことが主張されている>、松下・橋本他と纏めてひと括りにされています。■

  
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2015年11月07日

助動詞「だ」について(5)

言語学論叢 オンライン版第 3 号 (通巻 29 号 2010)
  語とは何か。(4)

 続けて、三浦つとむ「語の分類について ― 二 時枝誠記は客観主義に反対する」を見て行きます。

 時枝は山田の述べた分類の基準を、『国語学言論』でつぎのように批判した。

 ……山田博士は、これを具象的な独立観念の有無といふことで説明されようとするのであるが、てにをは或は詞といはれるものが、他の語に比較して具象的な独立観念を持たないかといふのに、必ずしもさうとは云えないのである。博士が、観念語と云われるものの中にも、極めて抽象的な概念しかあらわさない「こと」「もの」のやうな語もあり、関係語の中にも、「か」「も」の如く疑問、強意の如き具象的な思想をあらはし得るものもあって、独立観念といふ点で、この両者を截然と分つことは困難である。山田博士は、更に独立的に思想をあらはし得るものと、さうでないものとの別を以て説明されようとする。この分類基準は、橋本進吉博士もとられたところのものであって、博士は語が文節を構成する手続きの上から、一はそれ自からで独立して文節を構成し得るもの、二は常に第一の語に伴って文節を構成し得るものに二大別され、前者を詞、後者を辞と命名された。しかしながら、語が独立して用いられるか否かといふことは、必ずしも絶対的なものでなく、語を分類する絶対的な条件とはすることが出来ないものである。例へば、用言の活用形、「行けば」の「行け」は、「ば」と結合してのみ用ゐられるものであって、「行け」はそれだけで文節を構成するものとは考へられない。また、「八百屋」「肉屋」の「屋」も、決してそれ自身独立して文節を構成するものとは考えられないにも拘はらず、「屋」を助詞の中に入れることはない。

<助詞><助動詞>はふつう独立して用いられないが、会話の場合にはしばしば独立することがある。「彼は私に気があるのよ。」「かもね。」とか、「この仕事をやってのけたらおやじも驚くぞ。」「だろうな。」とか、客体的表現の存在しないことが決して稀ではない。文法学者が会話における表現のありかたを正面からとりあげようとしない現状は、いろいろな意味で問題にする必要があろう。
 山田ないし橋本流の発想は、内容においてこれこそ基本的なものだという基準をとらえることができないために、その弱点を形式的な独立か非独立かでカヴァーするものである。それで内容で基準をとらえられない学者は、みな同じような発想になるけれども、内容をまったく無視するわけではないから、内容をどう考慮するかによっていろいろちがった分類が生まれてくる。》
 問題としている論稿は、正に<会話における表現のありかたを正面からとりあげようとしない現状>が、談話を取り上げるようになった現在での問題提起で、鋭い着眼です。しかし、何ゆえに<「だ」を「用言」と見なす先行研究>が4種類も存在するのか、<形式名詞>とは何であるかに疑問を抱くことなく、機能主義的な言語観の中で、新たな見解を加畳するだけという点に本質的な問題があります。
 さらに、この先でも明らかになるように先行研究の内容の検討が不十分であることが判ります。
 続けて、三浦の論の展開を見て行きましょう。■
  
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2015年11月06日

助動詞「だ」について(4)

談話レベルから見た「だ」の意味機能―「だ」の単独用法を中心に―」〕劉 雅静
言語学論叢 オンライン版第 3 号 (通巻 29 号 2010)
   語とは何か。(3) 

 三浦つとむ「語の分類について ― 山田孝雄は西欧模倣に反対する」の、分類についての一般論に続けて山田孝雄の分類を論じています。劉 雅静氏の論文では、山田他の<「だ」を「用言」と見なす先行研究>を取り上げていますが、なぜそのような見解が生まれたかについては問う事なく、単に新たな説を加畳するにすぎません。これを明治からの西欧文法受け入れの歴史的批判に立ち戻り誤りを正しているのが三浦の論考です。この節の最後の部分です。

 西欧の言語は、現象的に一語のかたちをとっていても、その内容が多面的・立体的であって、日本語の複合語ないし二語に相当するものがすくなくない。このことは、語の分類をさらに困難なものにしている。古代のアリストテレスの四品詞観も、現代のイエスペルセンの五品詞観も、ともに現象論にとらわれた平面的な分類であって、西欧の言語にすら妥当なものとはいいがたい。日本語の特殊性にある程度の理解のある学者なら、たとえ西欧の言語に妥当な分類であってもそのまま日本語に持ちこめないくらいは見ぬけるのであって、大槻文彦が西欧の文法論と日本の伝統的のそれとを折衷させて自分の文法論をつくりあげたのも無理からぬことであった。山田はさらにすすんで、語とはなんぞやと問い、自分の回答の上に語の分類を行おうとした。いわく

……これを独立の観念の有無によりて区別すれば、一定の明かなる具象観念を有し、その語一個にて場合によりて一の思想をあらわし得るものと然らざるものとあり。一は所謂観念語にして他は独立の具象的観念を有せざるものなり。この一語にて一の思想をあらわすことの絶対的に不可能なるものはかの弖爾乎波の類にして専ら観念語を助けてそれらにつきての関係を示すものなり。この関係を示す語と、それら関係語によりて助けらるる語との区別はかの具象的観念を単独に有するものと有せぬものとの区別に該当す。この故に、先ず単語を大別して観念語と関係語との二とす。ここに観念語と目するものは所謂名詞、代名詞、数詞、形容詞、動詞、副詞、接続詞、感動詞なり。これらは皆何等かの観念を代表し、時としては一語にて一の思想を発表し得べき性質を有するものなり。その関係をあらわす語は或る観念を明かに指定せるものにして、一定の関係に立ちて用ゐらるるものなり。その関係をあらわす語は極めて抽象のものにして所謂助詞と称せらるるものなるが、これは元来国語に於いて観念語操縦の為に生ずる種々の範疇を抽象したるものが言語の形をとれるものなりとす。

この観念語と関係語との区別はたゞ意義形態の上より来れるにあらずして、実に談話文章を構成する上に及ぼす職能作用の異同より来れるものなりとす。……

言語には、意義・形態・職能とさまざまな側面があるが、山田はそのうちのどれが基本的かを問うことなく、全体をひっくるめて直ちに分類の基準に持ちこんだのである。これによって、彼は意識することなしに西欧の学者たちの弱点を受けつぐ結果となった。形式と内容との間には矛盾がある。言語も例外ではない。意義と形態だけではその間の矛盾にぶつかってどう処理するかに苦しむから、そのとき第三者である職能に援助を求めるのである。そこで<観念語>と<関係語>との区別も、「三の点において著しく認めらる」ということになった。第一は、「観念語は必要に応じて一の語を以て一の思想を発表し得る性質を有す。然るに関係語たる助詞にはこの性質全く欠如せり。」という点である。第二は、「一は他を助くるを職能とする性質のものにして、他はそれらに助けらる々性質のものにして、この差別はその本性上の差異に基づくものにして、論理上二者は判然と区別せらるべきものなりとす。」という点である。第三は「関係語たる助詞は必ずその助くる対者たる語の下について決して上には行かぬといふ語なり。」という点である。第一は意義からの、第二は職能からの、第三は形態からの規定だというわけである。ところが、第一と第三だけだと、のちに時枝誠記が指摘したような問題にぶつからざるをえない。意義においては具象的観念で<観念語>というべきものでありながら、形態においては他の語の下に必ずつくから<関係語>といわねばならないような、<助動詞><接尾語>が存在するのである。そこで職能として他を助けるという第二の規定を持ち出して、二対一でこれらを<関係語>に入れるというやりかたである。最後には、「職能作用の異同」を持ち出すことになったわけである。1

嗜好飲料の分類を、山田的に行う者はいないが、もし行ったらどうなるか?酒は愛好する者が集まって、楽しくくみかわし、親睦を深めていくところに価値があるといい、そこで中味だけではなく各自が容器を手に持ってついだりつがれたりする形態と機能を加え、三つの点から分類するとしよう。殺人の目的で青酸加里を入れた酒は酒ではなく、またガラスびんやプラスチックびんは酒の中に入るが醸造元で桶やタンクの中に入れてあるものは酒の中から追放されてしまうであろう。嗜好飲料をまずどこで分類するかという場合に形態や機能を捨象しているのが正しいなら、同様に言語をまずどこで分類するかという場合にも、形態や機能を捨象するのが正しいことになるのである。

 先の注1は、次のように記されています。

どんな学問の分野でもそうであるが、本質論を正しくとらえることができなければ、形式論・機能論・構造論のどれかを本質論にスリ変えなければならない。同じ機能論者でも、どこまでそれをおしすすめ、どこまで機能主義的に解釈しているかは学者によってちがうし、またそこから学者の能力いかんを読み取ることができるのである。■

  
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2015年11月04日

助動詞「だ」について(3)

   語とは何か。(2)
談話レベルから見た「だ」の意味機能―「だ」の単独用法を中心に―」劉 雅静
― 言語学論叢 オンライン版第 3 号 (通巻 29 号 2010)
 三浦つとむの「語の分類について ― 山田孝雄は西欧模倣に反対する」の引用を続けて行きます。

 言語は表現としての過程的構造を持っている。現象的な音声や文字のありかただけが言語の構造ではなく、その背後には表現主体の認識が、ひいては対象の構造がかくれているのであるから、立体的な存在である。語を分類するときにも、この立体的な存在のある側面においておこなうのであるから、語の分類もそれぞれの側面での分類が相互にむすびつくことになり、平面的ではなく立体的になる。この一事をもってしても、西欧の文法書の品詞分類の弱点が指摘できるし、さらに仔細に見るならば、ある品詞は意味の側面で、ある品詞は機能の側面で、ある品詞は構造の側面でというように、さまざまな側面でとらえたものをならべているだけで、基本的な側面でこれとこれが区別されるのだという扱いかたがなされていないことがわかる。分類ということは、何も言語だけの問題だけではない。他の事物についても必要なことであって、これまでにも多くの事物がいろいろ分類されて来た。この分類は、いずれも対象の構造によって規定されているのであって、言語とても例外ではありえない。つまり、分類についての一般論が科学として成立するのであって、この一般論をふまえながら語の分類を考えていくならば、一応ふみはずしを防げるといってよい。それにもかかわらず、言語学者は分類の一般論をふまえて語の分類を考えているとは思われないのである。それゆえわれわれは、まずはじめに手近な、立体的ではあるが簡単な構造を持つ事物をとりあげて、分類の方法を反省してみよう。

 嗜好飲料には、ジュースやコーラやビールや酒など多くの種類があって、それらがガラスびんやプラスチックびんや缶や樽などに詰めて売り出されている。店頭にならんだこれらの商品について、何が基本的な問題かと言えば、中味は何か、であって、それに伴う第二義的な問題として、どんな容器に入っているか、がある。具体的にいうなら、コーラはきらいだからジュースをのもうというのが第一で、登山に持っていくのだからびんではなく軽い缶のほうがいいというのが第二である。軽ければ中味はどうでもいいというわけではない。それで嗜好飲料の分類も、まず中味でわけた上で、つぎに容器の特殊性をとりあげてどれがどんな長所を持つかを明らかにし、これによって中味の分類を補うのである。「登山やハイキングには、軽くて持ち運びに便利な缶入りジュース(缶入りビール)を」というCMにもなる。この方法を普遍化すると、中味は内容で容器は形式であるから、事物を内容と形式の統一においてとりあげる場合には、まず内容についての大きな分類が基本となり、それを形式についての分類で補うべきだ、ということになろう。これはまた、形式を不当に重視して第一義的に考える形式主義では正しい分類を行うことができない、と教えているわけであって、形式主義者の行った分類をうのみにするな、と警告していることになる。

 同じ嗜好飲料に属するジュースとコーラも、容器の壁にかかる圧力の点では大きな違いがあって、周知のようにコーラはしばしば爆発を起こしている。容器のありかたがジュースとコーラとではちがってくる。一般論でいうならば、内容は形式と区別されなければならないが、相対的な独立であるから、内容の変化はある条件において形式のありかたを大きく規定してくるのである。ビールのびんもしばしば爆発を起こしているが、これを現象的にとりあげて、ビールもコーラも同じアルコール性の飲料だというならそれは誤っている。言語は一般的な認識を直接表現するのだが、概念にしても抽象のレベルはさまざまであって、きわめて高度の抽象になると形式面を大きく規定してくる。<名詞>はふつう自立して使われるが、「もの」(物、者)「ところ」(所)「こと」(事、言)のような高度の抽象になると、「ものがものだから大切に」「ところ変われば品変わる」「ことと次第では考えよう」などと自立して使われることは少なくて、「きもの」「くいもの」「はれもの」「おとしもの」「くせもの」「しれもの」「おろかもの」「いどころ」「みどころ」「うちどころ」「かんどころ」「しごと」「ひめごと」「こごと」「ねごと」「うわごと」などのように、多面的・立体的な把握のときの複合語として使うことが多い。<動詞>も同様に「ある」「いる」「する」「なる」のような高度の抽象になると、「ひろげてある」「死んでいる」「つめたくする」「暖かくなる」などのように、多面的・立体的把握のときに他の具体的な属性表現と連結して使うことが多い。抽象的であろうがなかろうが、自立して使われなかろうが、これらはやはり<名詞>であり<動詞>であることに変わりはない。それが客体の把握であり客体的表現であることに変わりないからである。その特殊性に目をつけて、これらを<形式名詞><形式動詞>などと分類しているけれども<抽象名詞><抽象動詞>とよぶのが適当であろう。抽象的か具体的かで、大きな分類が変わるわけではない。<抽象動詞>が<助動詞>と同じように抽象的で<活用>があるからという理由で、いっしょくたに扱ってはならぬのは、ビールを薄めてもサイダーといっしょに扱えないのと同じである。》

  現在テーマにしている論文の筆者が、<形式動詞>をこのようなレベルで理解できていれば、おのずと異なった展開になったはずなのですが。しかし、根本的には「言語は表現としての過程的構造を持っている。」ことが形式主義的発想では理解できないところにあるということでしょう。引き続き、「語の分類について」の展開を追ってみましょう。■

  
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2015年11月03日

助動詞「だ」について(2)

談話レベルから見た「だ」の意味機能―「だ」の単独用法を中心に―」劉 雅静
― 言語学論叢 オンライン版第 3 号 (通巻 29 号 2010) 
  語とは何か。(1)

 題記論稿では助動詞「だ」を<形式動詞>と見なすのですが、助動詞と形式動詞とは何であるのかが機能的に比較されているにすぎません。これは現在の言語学の品詞分類が機能に依拠した屈折語文法の分類を模倣しているに過ぎないことを明かしています。これを乗り越えるためには、まず語とは何かを明らかにし、さらにその分類方法を見直さねばなりません。この点を根本から見直し、論じたのが、三浦つとむの著書「認識と言語の理論 第三巻」(勁草書房刊197211月)に収録されている「語の分類について」です。長くなりますが、まずこれを引用します。

  語の分類について

    一 山田孝雄は西欧模倣に反対する

  語の分類ということは、一見さほど困難でないように思えるが、実は容易ならぬ問題である。日本語は西欧の言語のようにわかち書きをしていないから、日本語について論じる学者はそれをどう区切って一語とみとめるかという、いまひとつの問題をいっしょに負わされている。そしてこの二つの問題は決して無関係ではなく、一方でのふみはずしは否応なしに他方の解決を歪めることになる。区切りかたについての自分の原則を持たないと、西欧の言語のわかち書きから類推して区切りを行い、これに西欧の文法論を焼き直した分類を与えるということになりかねない。日本の学者は、明治のはじめから今日に至るまでこれらの問題をつきつけられている。類推や焼き直しもいまもってあとを絶たない。

 自主的にかつ科学的にこれらの問題を解決するには、語或いは単語とはいったい何であるか、その本質を把握することが不可欠である。山田孝雄(やまだよしお)はその把握の必要を理解するとともに、それが困難であることをも自覚していた。『日本語文法概論』はつぎのように述べている。

  実に語の単位といふものは文法研究の一切の基礎となるものなり、これは吾人が一つ一つの語と考ふるものをさすなるが、その一つ一つの語とは何ぞやといふ問題に対してはこれに答ふることは容易のことにあらず。従来これを単語といひ、それを説明して「箇々の語」などといへるが、かくの如きはたゞ語をかへていへるに止まり、説明とは見るべからず、われらの要求する所はその箇々の語とは何ぞやといふことの説明なり。

  彼はこのように、西欧や日本の学者が思考停止していた基礎的な問題をとりあげて、自分の理論を提出したのである。いわゆる<名詞>を一つの語と認めることでは誰の見解も一致するが、問題はさらにそのさきに控えている。たとえば、「なべぶた」(鍋蓋)は「なべ」と「ふた」の二語から構成された一の語であることは、漢字で表現する場合からみても明らかであるが、「まぶた」(瞼)は同じように「め」と「ふた」の二語から合成された語でありながら、誰もこれを二語の合成として扱わないし、漢字で表現する場合にも一字で記している。これは合成語として扱うべきものか否か、その理論的根拠はどうか。これに答えなければ語とは何ぞやという問題を解決したことにはならない。また「辛い」(からい)を一つの語と認めることでは大体において異議はないが、「辛み」「辛さ」「辛め」という場合の「み」「さ」「め」を<接尾語>として一つの語と認めるかそれとも<形容詞>の語尾変化と認めるかでは意見がわかれているし、<接尾語>説の中には「辛い」の「い」もまた<接尾語>だという主張も存在する。これにも理論的に答えなければならないのである。

 西欧の文法書は、現象的に区切られている語を平面的に羅列して、八品詞とか十一品詞とかいろいろ分類している。山田はこの西欧の分類も吟味して、哲学者の手になるものであるから無用のことを規定したかに思われるものもあるといい、日本の学者に向かっては、現に八品詞または九品詞の分類を行っているが果たして事実を充分にしらべてから日本語の品詞を定めたのか、おそらくそうではなくて漫然と模倣したのであろうとたしなめている。そして山田以後の学者も、それまでの平面的な羅列ではなく、個々の品詞を超えた基礎的な分類の中にそれらを位置づけようとしているのである。それゆえ焦点は、その基礎的な分類が果たして合理的であるか否かに置かれることになったが、ではそれをどのように吟味したらよいであろうか、語とは何ぞやという問題は、この基礎的な分類いかんという問題と結びついているし、それはまた言語とよばれる表現の本質的な特徴は何かという問題とも直接にむすびついている。言語学者の分類の失敗は、この最後の問題についての正しい答えを持ち合していないことと無関係ではない。》

  この論が記され、公刊されてから既に43年が経過していますが、事態は何も変わっていません。むしろ、欧米の日本語学習者に合わせて欧米言語学へのもたれかかりがより進行し、国語学もまたこれに引き摺られているのが現状で、この誤りを正さねばなりません。それは西欧言語学の機能主義の誤りを正すことにもなります。この点は今問題にしている論稿に見られる通りです。続けて、みていきましょう。■

  
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2015年11月02日

助動詞「だ」について(1)

 「壁塗り構文」問題について格助詞の扱いを見て来ましたが、形式主義、機能主義的言語論で助動詞がどのように扱われるかを肯定判断の助動詞「だ」に関する論考により見てみましょう。

 <談話レベルから見た「だ」の意味機能―「だ」の単独用法を中心に―>【劉 雅静: 言語学論叢 オンライン版第 3 (通巻 29 2010)】ですが、扱われているのは次の文です。 

  (1) 彼は学生だ。

 そして、次のように問題が提起されます。 

 例 (1) における「だ」は体言に接続し、助動詞として理解されやすいが、しかし、談話において、次の例 (2) (3) が示すように、「だ」は単独で文頭やターンの冒頭に出現したり、完結した文そのものに付いて用いられたりする場合もある。 

(2) 「桂太君かっこよくない!?」

 「だね、一際目立ってるかも…」『虹色の約束』

(3) どうせ、わたしはバカですよーだ。 (メイナード2000: 201)

談話における「だ」の出現位置と「だ」の意味機能の関係は興味深いことであるが、本稿では、例 (2)のような「だ」を考察対象とし、文頭やターンの冒頭に単独で出現する「だ」のことを単独の「だ」と呼ぶことにする。本稿の目的は、「だ」の単独用法を指摘・考察することによって、「だ」はいわゆる助動詞ではなく、形式動詞であることを主張するとともに、単独の「だ」の談話機能を明らかにすることである。 

タイトルからして「意味機能」で、「だ」の言語表現としての本質ではなく、意味機能や談話機能が問題とされます。本質から機能を導くという科学的な発想は見られず、機能が本質とされてしまいます。現在の国語学界や言語学会の論文や著作はすべて「~の機能について」なので、レヴェルが窺えます。

まず、品詞分類の先行研究の定義が示されます。 

「だ」の品詞分類に関して、従来から「助動詞」説と「用言」説の二つの立場がある。表1 が示すように、「助動詞」説には松下 (1961)、時枝 (1966)、橋本 (1969)、鈴木(1972) 等がある。「だ」を助動詞と見なす根拠として、「だ」は独立して一文の文頭に用いられないことや独立せず、常に他の語に伴って現れるといったことが主張されている。 

1 「だ」を「助動詞」と見なす先行研究

先行研究

松下 (1961)、時枝 (1966)、橋本 (1969)、鈴木 (1972)

 

主  張

・独立して一文の文頭に用いられない

・独立せず、常に他の語に伴って現れる

・他の語と共に一文節をなす


 これらの定義は、全て独立しているか否か、他の語と共に文節をなすかという形式や機能により定義されています。他方、助動詞と見なさない説もあります。

 一方、表2 が示すように、「だ」を助動詞と認めず、一種の用言と見なす立場もある。本稿では、こういった先行研究の立場をまとめて「用言」説と呼んでおく。その中に、山田 (1936) では「だ」は存在詞で、陳述作用を持つと述べている。渡辺 (19531971) や寺村 (1982) では「だ」は判定詞であるとし、北原 (1981) では「だ」は形式動詞で、詞相当のものであるとしている。小泉 (2007)では「だ」を準動詞と呼び、名詞的形容詞や名詞を述語化するための語尾要素にすぎないと指摘している。

         表2 「だ」を「用言」と見なす先行研究     

先 行 研 究

主 張

山田 (1936)

存在詞

渡辺 (19531971)、寺村 (1982)

判定詞

北原 (1981)

形式動詞

小泉 (2007)

準動詞

 ここでは、動詞他の類に入れられ、山田は助動詞を動詞の複語尾としていますが、「ある」との意味の類似性から存在詞とするという特別扱いをしています。小泉でも語尾要素にされています。さらに、形式に対して意味機能に対する先行説が示されています。これに対し、先の問題提起がされます。

 本稿では、自然会話を考察対象とし、文頭やターンの冒頭に立つ「だ」の単独用法を指摘することによって、「だ」は助動詞ではなく、形式動詞であることを主張する。また、談話レベルにおける「だ」の使用を考察することによって、「だ」は言語的或いは非言語的文脈を代用する機能を持つことを主張する。

  「だ」を形式動詞とし、「言語的或いは非言語的文脈を代用する機能を持つこと」が主張されます。何と、代用機能までもたされてしまいます。形式動詞というのも形式だけで内容がないということであり本来誤った名称と言えます。このように、本質を考えることなく形式と機能にたよる分類では見方によりそれぞれ恣意的な解釈が生みだされることになります。そもそも、名詞、動詞、形容詞類と助詞、助動詞類に本質的な差異があるのか否かも不明です。現在の記述文法や教科研文法では語彙機能と文法機能などという基準まで持ち出されています。

 この論考の主旨は、談話文においては、(2)(3)のような、文頭に単独で「だ」が使用される例が頻出し、構文の意味論的・語用論的考察から導かられた助動詞の定義ではこれを説明できないというところにあります。

 たしかに、文であろうと談話であろうと言語であることには変わりなく、これらに対し一貫した説明が出来ないような定義は論理的、科学的とは言えません。

 北原 (1981)でも「いわゆる助動詞」と助動詞の明確な定義を示すことができず、日本語文法、生成文法、や記述文法も同様なレベルです。この点、時枝誠記の助詞説が特徴的です。この点は、また別途論じましょう。

談話での使用例は何も談話に限る話ではなく、小説中の会話表現にも出てくるもので、いまさら談話などと特別視するのがおかしいと言えなくもありません。そもそも、助動詞の機能的、形式主義的な定義そのものに問題があるというのが本来の課題です。

これは、やはり言語とは何かの本質に立ち返り考察することなく、機能と形式を玩んでも根本的な解決になるとは考えられません。先ず問題になるのは、単語とは何を言うのか、どのように定義されるかです。■

  
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2015年11月01日

形式主義言語論の「壁塗り交替」という現象論 (13)

     「ニ格とデ格の交替について」、「感情動詞におけるニ格とデ格の交替について」 張 麗(大東文化大学)

 最後に題記2編の論文についてみましょう。この論文の特徴は、国立国語研究所が提供している『現代書き言葉均衡コーパス(中納言)』を通して、相当文を検索し使用実績を調査、検討していることである。このコーパス(中納言)の概要は次の通りです。

 『現代日本語書き言葉均衡コーパス』(BCCWJ)は、現代日本語の書き言葉の全体像を把握するために構築したコーパスであり、現在、日本語について入手可能な唯一の均衡コーパスです。書籍全般、雑誌全般、新聞、白書、ブログ、ネット掲示板、教科書、法律などのジャンルにまたがって1億430万語のデータを格納しており、各ジャンルについて無作為にサンプルを抽出しています。 すべてのサンプルは長短ふたつの言語単位を用いて形態素解析されており、さらに文書構造に関するタグや精密な書誌情報も提供されています。著作権処理も施されていますので、安心して使っていただけます。 

 さて、最初の「ニ格とデ格の交替について」は「1.はじめに」で次のように記しています。例文は、(1)(2)のみ示します。 

(1)~(4)が示すように、「とる」「もつ」「かかえる」「だく」のような動詞は格体制の交替(~ヲ~ニ形と~ヲ~デ形)を起こす。

1a)彼女はグラスを手にとり、一口飲んでみた。 (海老沢泰久『男ともだち』講談社 1998

1b)茶碗を右手でとり、左手で扱って、右手で勝手付に仮置きする。  (千宗左『小棚の点前』主婦の友社 1990

2a)すると、雑誌を手にもって農家の人が大勢たずねてくるようになった。  (横森正樹『夢の百姓』白日社 2002

2b)ときどき六寸ぐらいある基盤を片手でもって、五十匁蝋燭の火を団扇のように煽り消したそうです。      

 この、(a(b)を「格体制の交替(~ヲ~ニ形と~ヲ~デ形)」と捉えているわけですが、これまで見てきた通り、単に形式的に「ニ」と「デ」が交替している訳ではありません。「ニ」の場合は動作の始点・終点を指し、「デ」は動作の手段・手段を表しています。つまり、表現している意味が異なっているのであり、単なる交替と捉えること自体が誤っています。先行研究について次のように記しています。 

 「とる」「もつ」「かかえる」「だく」はニ格とデ格の交替が可能だと言われるが、それぞれニ格とデ格の使用率はまだ明らかにされていない。先行研究(言語学研究会 1983309)ではに格の名詞は主に身体の部分(とくに手)をしめすものであると指摘しているが、「手に~」以外にどんな表現があるかまだはっきりわからない。また、どんな場合、交替ができるかも分からない。

 先行研究ではニ格は古い道具を示す指摘もあり、空間の意味を示す研究もある。本稿ではデ格は道具性を表し、ニ格は空間性を表すと考える。 

「ニ格とデ格の交替が可能だと言われる」こと自体が現在の日本語学の誤りを示しています。「ニ格とデ格の使用率」などあまり意味があるとも思えません。論者の日本語の使い方も若干おかしな所が見られ、どのような教育、指導を受けたかの方が気になるところです。「デ格は道具性」、「ニ格は空間性」を表すというのは、方法・手段と支店・終点を言い替えものと考えれば当らずといえども遠からずというところです。

「感情動詞におけるニ格とデ格の交替について」では、「感情動詞の定義を筆者なりに述べておくと、人間の心理、感情にかかわる動詞としてとらえ、思考動詞などは対象外とする」として、「驚く」「怯える」「苦しむ」「困る」「悩む」「びっくりする」「迷う」について調べています。それぞれ「ニ格、デ格の使用率」と「ニ格とデ格の交替条件は何なのか」を明らかにすることを目的としています。「とる」「もつ」等の動詞については、<「手に~」以外にどんな表現があるか>も調べられています。

使用比率など興味はありませんが、結果はリンクを張っておきますので論文をみていただきたいと思います。明確な方法論もなく、安易にデータベースを使用する傾向も気になります。交替可能の条件は次のような結論になっています。 

以上、「手にとる」「手にもつ」「手にかかえる」と「手でとる」「手でもつ」「手でかかえる」の用例が全部見つかり、「とる」「もつ」「かかえる」のニ格とデ格の交替可能の用例は身体の部分「手」と結ぶことであると思われる。また、「かかえる」のもう一つ交替可能の用例は身体の部分「腕」と結ぶことであると考えられる。

 これは、交替でも何でもなく、「手持つ」と「手持つ」の意味の相違が現れているだけです。感情動詞については、次のように纏められています。 

考察した結果、日常生活を描く抽象度の低い名詞と接続する場合、デ格しか使えなく、ニ格が使いにくく、ニ格とデ格の交替が難しいということが分かった。もう少し抽象度が高くなった人間の生活を表す名詞や病名を表す名詞の場合、ニ格とデ格の交替が可能だと考える。抽象度が高い名詞と接続する場合、デ格の使用が限られている。ニ格とデ格の交替が不可能という結論が得られた。しかし、一見抽象度が高い名詞でも、デ格の使用も可能の場合があるため、抽象度が高い名詞にはデ格が使えないとは言い切れないと思われる。ニ格とデ格の交替についての研究を深めたいなら、名詞の抽象度についての研究もさらに深まる必要がある。それを今後の課題とする。
  先の論考の、「外的原因」や「欠乏」とは異なり「名詞の抽象度」とされていますが、抽象度自体の意味が判っていないのではと考えられます。「名詞の抽象度についての研究」は深めてもらいたいと思いますが、それは格交替とは別の問題です。このような、機能的、形式主義的な研究が見掛けの取り付き易さから、意味もなく繰り返されていることに問題があります。
  時枝誠記は、「ただ現象的なものの追求からは文法学は生まれて来ない」と忠告しています。   
  これまで見てきたように、言語表現を直接支える認識を無視してピント外れの「壁塗り構文」問題や、格交替という現象を論じていては言語の科学的な解明は不可能であることに気付くべきと言えます。■
  
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2015年10月31日

形式主義言語論の「壁塗り交替」という現象論 (12)

    「感情動詞の補語についての一考察 ―「ニ」と「デ」について」(10)

 最後に、「~のことで」という形について考察されています。

 また、「デ」が「~のことで」という形でその内容を表す(庵(2000))とされているが、次の例は、困ったり悩んだりしている内容を表している。

 (5230歳代主婦。親類の60歳代男性のことで困っています。家族が集まった席で、親類の子どもたちにしつこくお酒を勧めるのです。(読売20080403

 (53) 5年前の11月、60歳の誕生日。商売や家庭のことで苦しみ、「いっそ死んじゃおうか」とまで考えていたころだった。(読売20050501

 (54)来月、従妹の結婚式に訪問着で出席しようと思っていますが、髪型のことで悩んでいます。(知恵袋OC1100692

 (5520歳代後半の女性です。2年ほど付き合ってきた30歳代の男性との結婚のことで迷っています。(読売19991023

 (52)を例に見てみると、「親類の60歳代男性」に関すること、この男性の行動について「困っている」のである。「~のことで」は、困ったり悩んだりしている内容を表している。

  この「こと」は抽象名詞(形式名詞)で、まず対象を「こと」として抽象的に表現し、具体的な内容は次の文で述べられています。英語の場合のIt~that構文、関係代名詞による表現と同じです。ここでは、論理が逆転しています。「~のことで」が内容を表すのではなく、「デ」が格助詞として使用された例を集め、その場合に「~のことで」が感情動詞の補語として機能し理由としての内容を表しています。<32 格助詞の「デ」ではない「デ」>で論じたように、「デ」には格助詞の場合と、肯定判断辞の「ダ」の連用形「デ」の二種類があります。この内の格助詞の場合を集めたものです。「~のことで」という形式に捕らわれる誤りを示しています。「32」での、<ナ形容詞、「第三形容詞」の連用形の「デ」、主題・主語が言語化されている判定詞の「デ」は、述語であるという点で格助詞の「デ」と区別でき>るという論理の誤りはそこで示し通りですが、この区別された格助詞の事例を集めたもので、本来この点を明確にすれば良いだけのことなのです。 

 また、次の例も、困ったり悩んだりしている内容を表わしている。

 (56)電話番号で困ってます。引越ししてきて、今の電話番号になってから約3年経つのですが、未だに昔の人宛てに電話がかかってきます。(知恵袋OCO801916

57)来週二次会があるのですが、そのときに着ていく服装で悩んでいます。(知恵袋OCO9 01699

58)店を継ぐ気持ちは変わらなかったが、中学3年のとき、進路で迷った。(読売20070824

 (56)~(58)は、「電話番号」「服装」「進路」の存在が感情を引き起こしているわけではない。(56)~(58)は、「電話番号に関すること」「服装に関すること」「進路に関すること」について困ったり悩んだりしているのである。(56)~(58)は、「~のことで」と同様に、困ったり悩んだりしている内容を表している。

 (52)~(58)は、困ったり悩んだりしている内容を表しているのであるが、この内容は、困ったり悩んだりする「原因」でもあり、(52)~(58)は、困ったり悩んだりしている内容を表すと同時に、その内容が感情を引き起こした「原因」であることも表していると言えるだろう。 

56)の場合は「電話番号のことで」の「こと」の内容はその次の文に示されています。(57)では、「そのときに着ていく服装」と内容が示されています、(58)では、「進路」の具体的な内容は示されていません。それゆえ、原因としての具体性に若干乏しく、不自然な感じがします。

以上、「困る」「苦しむ」「悩む」「迷う」について、[欠乏]の場合は、「デ」を使うことができないが、[存在]の場合は、「デ」も使うことができることを見た注11

また、[存在]以外にも、範囲を限定する「デ」や内容を表す「デ」も、困ったり悩んだりしている範囲を限定する、または、その内容を表すと同時に、その範囲や内容が感情を引き起こした「原因」であることを表す「デ」として使うことができることを見た。この困ったり悩んだりしている範囲や内容というのは、まさに「感情の対象」である。これらは、「感情の対象」として「二」でマークすることもでき、また、「デ」でその範囲や内容を限定することによって、感情を引き起こした「原因」であることを表すこともできるのである

以上、見てきた通り[欠乏]やら[存在]などという対象の問題が「デ」や「ニ」でマーク出来るか否かの問題ではなく、単に話者が対象を原因として捉えるか、単に対象としてにみ捉え表現するかの認識の相違であることは明らかである。このような思考の誤りは、上に挙げられている注11にも示されています。次の通りです。 

 宗田(1992)は、「挨拶で困る」と「挨拶に困る」を例にあげ、前者は「慇懃無礼な挨拶」をされたことを思い出し困っている状況、後者を「何と言っていいかわから」ない状況での発話であると述べている。これは、本稿の用語では、「挨拶に困る」は[欠乏]であるが、「欠乏」が「二」、[存在]が「デ」のように相補分布的な関係ではなく、「二」は[存在]の場合も使うことができ、また、「デ」が範囲や内容を表すと同時に「原因」であることも表すことができるというのが本稿の主張である。 

 「慇懃無礼な挨拶困る」ことも、「慇懃無礼な挨拶困る」こともあるのは明らかです。「5.まとめ」は次のように始まります。  

感情動詞の補語を表す「二」が、どのような場合に「デ」に言いかえることができるかについて考察を行った。これは、「感情の対象」は、どのような条件を満たせば「原因」と言えるかということである。 

 明らかになったのは、「言いかえ」という捉え方自体が誤りであり、「感情の対象」の問題ではないということです。

  
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2015年10月29日

形式主義言語論の「壁塗り交替」という現象論 (11)

   「感情動詞の補語についての一考察 ―「ニ」と「デ」について」(9)

 さらに、<[欠乏]の場合は、「デ」を使うことができない>例が挙げられます。

   また、「苦しむ」「悩む」「迷う」も、「困る」と同様に、[欠乏]の場合は、「デ」を使うことができない。

 (36)どうして、宝石店の店貝が謙人さんのような方と知り合いになったのか、理解に{*で}苦しみました。(『異人たちの館』)

 (37)高校時代、サッカーをするのが好きだったが「趣味は」と聞かれると、返答に{*で}悩んだ。(読売20080207

 (38)「給水を止めると事後処理が大変なので判断に{*で}迷った。日曜日で職員の手当も付かず、対応が遅れた」(読売20050524

 このように、「困る」「苦しむ」「悩む」「迷う」では、[欠乏]の場合は、「デ」を使うことができない。

 [欠乏]の例の二格名詞句には、他に「話題」「処置」「判定」「区別」「形容」「気持ちのやり場」等がある。

  「理解」が[欠乏]しているのではなく、「理解できないで」苦しんだのであり、「理解」「返答」「判断」等の漢語は動詞的内容を持った名詞です。これを形式的に「デ」としてしまうと単なる動作でしかなく、原因としての具体性が欠けているために不自然に感じられます。ここでも、[欠乏]しているのは、「二格名詞句」ではなく、具体的内容なのです。認識の表現としての言語という本質をとらえられないと、このような形式的解釈に進しかありません。次は「~デ困った」の検討です。

      次は、「デ」の例を見てみよう。

39)「鳥インフルエンザ問題の風評被害で困った。(以下略)」(読売20040625

40)「県内には非正規労働者が86000人いるとされ、低賃金で苦しんでいる。(以下略)」(読売20080305

41)自分の出来心でつけてしまったやけどのあとで悩んでいます。(読売19980731

42)父の一言で迷った。(作例)

 これらは、「風評被害」「低賃金」「やけどのあと」「父の一言」が無くて困ったり悩んだりしているわけではなく、「風評被害」「低賃金」「やけどのあと」「父の一言」が存在していることによって、困ったり悩んだりしているのである。このように二格名詞句の存在が感情を引き起こしているものを[欠乏]に対し、[存在]と呼ぶ。さきに、「驚く」「びっくりする」において「デ」を使うには、名詞句が[外的原因]でなければならないことを見た。しかし、「困る」等では、例えば(41)の「やけどのあと」は、出来事ではなく、[外的原因]とは言えない。しかし、(41)は適格文であることから、「困る」等では、デ格名詞句が[外的原因]である必要はなく、[存在]の場合は、「デ」を使うことができると言える。

  これは、先に検討したように[存在]や[外的原因]の問題ではなく、「風評被害」「賃金」や「やけどのあと」「父の一言」等は原因となる具体性をもっているからです。

     もちろん[存在]の場合も、二を使うことができる。

43)隣に住む60歳代の認知症の男性に困っています。(読売20080702

44)人々は借金に苦しんだり、夫や妻の浮気に苦しんだり、財産争いて悩んだりしていた。(『完全犯罪はお静かに』)

45)マナーの悪い飼い主に悩んでいます。(知恵袋OC1100019

46)入学後、野球部に入った友達と遊び半分で野球をしていると、友達は「野球しようや」と言った。私はこの一言に迷った。中学の時のような惨めな思いはもうしたくなかったからだ。(読売20061214

 (43)~(46)は、それぞれ「認知症の男性」「借金」「夫や妻の浮気」「マナーの悪い飼い主」「この一言」の存在が感情を引き起こしているのであり、[存在]であると言える。

  「に」の場合は単に対象をスタティックに指すだけですから、聞き手は理解に迷うことなく、いつも使用できます。

    次の例は、[欠乏]と[存在]の違いをよく表している。

 (47) a 人手に困った。

     b ?人手で困った。  (作例)

 働く人間や労働力が足りないという状況を思い浮かべると、(47aは自然であるが、(47bは不自然である。これは、[欠乏]の場合は、「デ」を使うことができないからである。

  これも、[欠乏]しているのは「人手」の何に困ったかの原因としての具体性である。

 次に、例えば、ボランティア活動の責任者が、ボランティアが大勢来てくれたものの仕事が無くて、何をさせていいか困ったという状況を思い浮かべてみる。これは[存在]である。すると、次の(48abは、ともに適格文である。

 (48a有り余るほどの人手に困った。

    b有り余るほどの人手で困った。 (作例)

 また、(48bは、次の(49)ように、文脈で何らかの主題が設定されていれば、判定詞の「デ」の解釈も可能である。

 (49) 「昨日の海岸清掃は、どうでしたか。」

     「有り余るほどの人手で困ったよ。」 (作例)

 (49)は、「昨日の海岸清掃は、有り余るほどの人手だった」のように主題があると解釈すれば、判定詞の「デ」である。

  これらも[存在]や主題の問題ではなく「有り余るほどの人手」と、原因としての具体性があれば不自然には感じられません。

    ところで、「デ」の用例を見ていくと、一見、原因を表す「デ」とは言えないような「デ」もある。

50)氏康は、そう怒っては見たものの、さて、あかねの戸倉訪問を事前通告と見るべきか計略と見るべきかで迷った。(『武田信玄』)

51)エリア・カザンを最終的に支持するかしないかで、私は、果てしなく悩んだ。今も悩んでいる。(『ハリウッド映画で読む世界覇権国アメリカ』)

50)は「事前通告と見るべき」か「計略と見るべき」か、という2つの選択肢の中で「迷った」ということを表している。これは、「果物で何が一番好きですか」の「デ」と同じように範囲を限定する「デ」であると言える。(51)も同様である。このような範囲を限定する「デ」は、「困る」等の補語をマークする場合は、何について困ったりしているのか、その範囲を限定しているのである。そして、その範囲の事柄が、感情を引き起こした「原因」でもあり、範囲を限定する「デ」は、困ったり悩んだりしている範囲を限定すると同時に、感情を引き起こした「原因」であることも表すと言えるだろう。

  これは、対象の二者択一が原因で悩んだのであり、「補語をマークする」と見なす機能的見方では「デ」の本質が話者の主体的認識の表現であることが理解できないことを示しています。■

  
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2015年10月27日

形式主義言語論の「壁塗り交替」という現象論 (10)

  「感情動詞の補語についての一考察 ―「ニ」と「デ」について」(8)

「自分自身の大胆さびっくりしています。」や「誘いの激しさ驚いた。」がやや不自然に感じられるのは、「~さ」という形容詞の名詞化用法について考えねばなりません。

 実体の固定・不変の属性を表現する形容詞の、その属性の存在自体を独立の対象として扱う場合に質的に扱う場合と実体化・凝結化して把握し量的に扱う二つの場合があります。質的に捉えた場合は「暖かみ」「痛み」と接尾語<ミ>を付けますが、量的な把握では、<サ>を付けます。「暖かさ」「痛さ」「楽しさ」などです。

 この場合、具体的な量そのもは「高さ20センチ」とか「重さ100キロ」というように表します。しかし、単位がない場合は、「可愛あまって憎さが百倍」のように比較やら、比喩で示すしかありません。最初の「大胆さ」の場合は「思いもよらない大胆さ」や、「激しさ」では「常軌を逸した激しさ」などと言います。このように、具体的になれば因果関係の原因と認識できるので、「自分自身の思いもよらない大胆さびっくりしています。」とか、「常軌を逸した激しさ驚いた。」と表現しても不自然さは感じません。最初の「1 問題の所在」で示された例文、「彼女の優しさに驚いた。」も、「彼女の優しさで驚いた。」は不自然ですが、彼女の言い尽せない優しさで驚いた。」と驚きの原因が具体的であれば自然な表現になります。このように、単なる「対象」を指す「に」に対し、「原因」を喚起する「で」の場合は因果関係にふさわしい具体性がないと不自然に感じます。

 <[外的原因]ではない場合は、「デ」は使いにくいが、判定詞の「デ」と解釈することができれば、「デ」も使うことができることを見た。>などというのは、先に見た通り藪睨みというしかありません。

 続いて、「42 おびえる」をみましょう。

       次に、「おびえる」を見てみよう。「おびえる」の「デ」の用例は少ない。

 (29)でも敏感な子で、空襲などでおびえるとそのあと、おねしょをするの。(『月夜野に』)

 (29)の「空襲」は、[外的原因]と言えるだろう。このように、「おびえる」も[外的原因]の場合は、「デ」を使うことができる。もちろん、次の(30)のように、[外的原因]でも「二」を使うことができる。

 (30)避難所では、お年寄りが身を寄せ合い、相次ぐ余震におびえていた。(読売007. 12. 25

 (30)は「相次ぐ余震」であり、「余震」は、感情の主体の外部で、感情が動いた時点にすでに起きたこと(起きていること)であり、[外的原因]と言える。

 次に、「おびえる」の「二」の用例を「デ」に言いかえることができるか見てみると、次の(31)(32)は、「デ」を使うことができない。

 (31) 中学生になり、私は初潮を迎えた。すると、母は私の妊娠に{*で}怯えはじめた。『私』)

 (32) また他の人々はに{*で}おびえ、恐怖から生命を捨てた。(『マハーバーラタ』)

 (31)は、「私の妊娠」がこれから起きることに対して、「おびえている」のであり、「私の妊娠」は、まだ起きていない。(32)も、これから「死」が訪れるであろうことに「おびえている」のである。このようなまだ実現していないことは[外的原因]とは言えず、「デ」を使うことができない。これは、まだ起きていないことは「感情の対象」ではあっても、「原因」ではないということである。

 以上、「おびえる」も「驚く」「びっくりする」と同じように、[外的原因]の場合は、「デ」を使うことができることを見た。

 これらは[外的原因]ではなく、可能性又は恐怖であり、「母は私の妊娠の可能性に{で}怯えはじめた。」「また他の人々は死の恐怖に{で}おびえ」の省略と見なすべきものです。続いて<4.3 困る・苦しむ・悩む・迷う>を見ましょう。

   次に「困る」「苦しむ」「悩む」「迷う」について見てみよう。「困る」等は、「驚く」等とは異なり、[外的原因]か否かということで「デ」の使用の可否が決まるとは言えないことを指摘する。

 まず「困る」は、次のような例では、「デ」を使うことができない。

 (33)みなが目のやり場に{*で}困った。光っていたはずの頭に、カツラが載っていたのだ。(『空中ブランコ』)

 (34)とたんに私の怒りがどこかにふっとんでしまった。何という正直な、子供っぽい、すなおな、純な魂を持った人間か。私は返答に{*で}困った。(『友を偲ぶ』)

 (35)高橋さんは520日早朝、自宅近くの小山川に仕掛けていた通り網(長さ45メートル、直径60センチ)に巨大なサンショウウオが入っているのを見つけた。自宅に持ち帰ったものの扱いに{*で}困り、さいたま水族館などに連絡。(読売20070613

 (33)~(35)は、それぞれ「目のやり場」「返答」「扱う方法」が無いことによって感情が動いたことを表している。このように、二格名詞句が無いことによって感情が動いたことを表すものを[欠乏]と呼ぼう。「困る」は[欠乏]の場合、「デ」を使うことができない。

  たしかに「目のやり場がないの」「返答のしようがないの」「取扱」困ったのですが、二格名詞句が無いことによって感情が動いたのではなく、どう対応して良いか困ったのであり、結果的に対応方法が無くて困ったのです。ここでも、<[欠乏]の場合、「デ」を使うことができない>のではなく、因果関係としての表現が十分ではないために形式的に「デ」としたのでは、不自然に感じるだけなのです。「デ」としても、意味が通じないわけではありません。因果関係としての表現が十分ではないため不自然な感じがするだけです。

  
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2015年10月25日

形式主義言語論の「壁塗り交替」という現象論 (9)

   「感情動詞の補語についての一考察 ―「ニ」と「デ」について」(7)

[外的原因]とは言えない>例をみてみましょう。

     もう少し、「二」が使われている用例を見てみよう。

 (22)「当初、新潟にしかない魚と野菜にびっくりした。(以下略)」(読売20080704

 (23) 同州南部の町、ドラムヘラーで初めてフッタライトを見かけ、異様な服装に驚いた。(読売19880206

 (22)(23)の「新潟にしかない魚と野菜」「異様な服装」は、出来事ではないし、複文にしても「(私が)新潟にしかない魚と野菜を見て」「(私が)異様な服装を見て」のように、感情の主体がガ格に現れる。これらは、[外的原因]とは言えない。(22)(23)のように、名詞句が感情の主体の外部で起きた出来事ではない場合、「デ」にすると不自然である。例えば、次の(24)は、かなり不自然であろう。

 (24) ?新潟にしかない野菜でびっくりした。 (作例)

  これは、複文にする際、驚きの動作主をガ格にしただけで、感情の対象も外部の物、あるいは売られているという出来事、「異様な服装をしている」という出来事である。全くの[外的原因]である。[内的原因]というならば、「頭痛」や「腹痛」のような体内現象の場合であろうが、これとて「突然の頭痛で驚いた」り「急な腹痛に驚く」のである。誤った論理に強制された詭弁でしかない。「新潟にしかない野菜でびっくりした。」も何ら不自然ではない。これについては、次のように論じている。

  しかし、さきに見たように、「デ」が判定詞の「デ」と解釈されれば、次のように「デ」も使うことができる。

 (25)「もう、長岡菜を食べましたか」

    「ええ、新潟にしかない野菜で、びっくりしました」  (作例)

 (25)では、文脈で「長岡菜は」という主題が設定されており、判定詞の「デ」と解釈できる。(24)を不自然だと感じない母語話者もいるが、それは(25)のように判定詞の「デ」は使用可能で、格助詞の「デ」と判定詞の「デ」の境界がはっきりしないことによるものと考えられる

  この「境界がはっきりしない」のが形式にとらわれた誤りであることは先に指摘した通りで、ここでも語の形式と話者の認識に基づく意義の関係を理解出来ていないことを明かしているにすぎない。言語実体観によっては、この点を正しく理解することは出来ません。続く論を見てみましょう。

  また、「驚く」「びっくりする」には、次のように「~さに驚く」という例が多い。

 (26)まさか自分が浮気するなんて思ってもいなかったので、自分自身の大胆さに{?で}びっくりしています。(知恵袋OC15_OOO17

 (27) 出勤して、コンビニで取り扱う商品の多様さに{?で}驚いた。(読売20090312

 (28)近江商人とか、伊勢商人というが、初めて、その商い振りを見て誘いの激しさに{?で}驚いた。(『追憶』)

 (26)~(28)は「デ」に言いかえると不自然である。(26)を例に見てみると、自分が浮気をしたことに対し、「自分自身の大胆さ」を感じたのである。(27)は、コンビニの商品を見て、そこに「商品の多様さ」を感じたのである。このように、感情の主体の判断による「~さ」という名詞句は、[外的原因]とは言えない。[外的原因]とは、感情の主体の外部で、感情が動く時点においてすでに起きた出来事であった。「雷で驚いた」であれば、複文にした場合「雷が鳴って、驚いた」のように、デ格名詞句が前件の主体となるものである。(26)~(28)は、複文にすると「自分自身の大胆さを感じて」「コンビニで取り扱う商品の多様さに気がついて」のように「~さ」を認識したことを表す動詞が現れる。複文にした場合の動詞は、他にも考えうるが、「自分の大胆さ」「コンビニで取り扱う商品の多様さ」が、「雷」や「地震」等とは異なり、感情の主体の外部で起きた出来事ではないということが重要である。現実の世界では、コンビニの商品が多種多様であったとしても、そこに「多様さ」を感じるのは感情の主体であり、感情の主体の判断による「~さ」という名詞句は、[外的原因]とは言えない

 また、「~は、誘いの激しさだ」「~は、自分自身の大胆さだ」のように、何らかの主題があるとは考えにくく、判定詞の「デ」であるという解釈を許さない。そのため、「デ」を使うことができないのであろう。

 「雷」や「地震」が外部で起ころうが、それを聞いたり、感じたりしなければ驚きはしません。「雷が鳴って、驚いた」のは、音や、光を聞いたり、見たりしたからであり、感情を引き起こす誘因の認識なしに感情は起こりません。複文にする際、対象自体の動作を表す動詞と感情主体自体の知覚動詞を使い分け外部‐内部としているに過ぎません。判定詞という解釈の誤りも先に指摘しました。では、ここで「ニ」を「デ」に替えた場合に不自然さを感じるのは何故でしょうか。

 それは、一つは「~さ」というのが対象の属性を実体化し量的に扱った表現であることにあります。「高さ2メートル」であり、「重さ1t」や「騒がしさ50ホン」と言った使い方をします。これに対し「~み」と言う場合は、「温かみ」「高み」「重み」「痛み」「楽しみ」というように質的に扱って表現します。

 二つめは、「ニ」という格助詞は単純に対象を指し示す認識しかありませんが、格助詞「デ」は原因としての認識を表すので、その点が示されないと不完全、不適切に受けとられます。これらの理由により、「自分自身の大胆さびっくりしています。」や「誘いの激しさ驚いた。」といった表現に不自然さを感じます。

 次回、これをもう少し詳しく考えてみましょう。■

  
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2015年10月24日

形式主義言語論の「壁塗り交替」という現象論 (8)

   「感情動詞の補語についての一考察 ―「ニ」と「デ」について」(6)

 次に<判定詞の「デ」と格助詞の「デ」の区別が難しい例>が検討されます。

       しかし、次のように、判定詞の「デ」と格助詞の「デ」の区別が難しい例も多い。

 (15)「予想像以上のごみで{に}驚いた。マナーを守ってほしい」(読売20090302

 (16)「非常に意外な判決で{に}驚いている。上級庁と協議して適切に対応したい」(読売20080510

 (15)は、川の清掃活動に参加した中学生のコメントであり、「清掃活動をしての感想」が話題となっており、感想として「ゴミの量が想像以上だった」そして「驚いた」ということを言わんとしていると思われる。(16)も、無罪判決に対する検事のコメントで、「この度の判決は」といった主題があるものと思われる。このように文脈上、何らかの主題があると思われる場合、「デ」は判定詞の「デ」と解釈することができる。しかし、さきに見た(10)~(14)の「デ」が「二」に言いかえることができないのに対し、(15)(16)は「二」に言いかえることも可能で、格助詞の「デ」との区別は困難である。これは、(15)(16)の「ごみ」「判決」は、指示対象を持つ名詞らしい名詞であり、名詞に格助詞の「デ」がついたものとも解釈でき、また、名詞が判定詞をともない述語になることもできることにより、述語であるという解釈も可能なためであると考えられる。

  文脈における主題の有無と、それをどのように表現するかは別次元の問題であり、事態を客観的に名詞句としてとらえた「予想像以上のごみ」や「非常に意外な判決」を、単に因果関係や対象として捉え表現した例文の「で」「に」は格助詞である。その事態を再確認し、動かぬものとして判断し形式名詞「の」で概念を纏め強調して表現した、「ごみが予想像以上に多いので{に}驚いた。」や「判決は非常に意外なので{に}驚いている。」の場合は肯定判断の助動詞「だ」の連用形「で」となります。

  (15)(16)は「二」に言いかえることも可能で、格助詞の「デ」との区別は困難である。これは、(15)(16)の「ごみ」「判決」は、指示対象を持つ名詞らしい名詞であり、名詞に格助詞の「デ」がついたものとも解釈でき、また、名詞が判定詞をともない述語になることもできることにより、述語であるという解釈も可能なためであると考えられる。

 などと、「言いかえることも可能」とか、「述語であるという解釈も可能」といった話者の対象認識とはかけ離れた、言いかえや解釈可能性で表現された語の品詞が判断できるものではありません。ここでは、語の意義と意味の関係も理解されていません。これでは、 

 このように、感情動詞の「二」と「デ」について考える場合、その「デ」が格助詞の「デ」だけではなく、判定詞の「デ」と解釈できる場合もあり、その境界は、はっきりしないが、そのことを踏まえつつ考察を進めていきたい。

 と、「その境界は、はっきりしない」のは当然です。このような、ピンと外れの議論の基に、考察が進められます。<4. 「デ」が使えるとき・使えないとき>を検討しましょう。

 4. 1 驚く・びっくりする 

 まず、「驚く」「びっくりする」について見てみよう。

次の(17)~(20)は、「デ」が使われている用例である。

17)「火事、という声で驚き、外を見ると炎が私の家の窓まで迫っていた。(以下略)」(読売19940114

18この春のちゃちな空襲ですっかりおどろいちゃってるが、ぼくはちゃんと被害を視察に行ったのですぞ。(『楡家の人びと』)

 (19)「サイレンでびっくりして外に出た。煙が大量に出ていたので火事かと思ったが、違ったので安心した」(読売20081015

 (20)県消防防災課などによると、春日部市で女性(24)が地震の揺れで驚き、自宅ドアに組み込まれたガラスに左手をぶつけ、割れたガラスの破片で軽いけが。 (読売20051017

 これらの「デ」の用例を見てみると、名詞句が「声」「空襲」「音」といった人間の行為によって生じたものか、「地震の揺れ」等の自然現象である。これらは、宗田(1992)の指摘のとおり、「火事という声がして」「空襲があって」のように、複文に言いかえることができ、かつ、デ格名詞句が前件の主体となる。これらは、感情の主体の外部で起きた出来事なのである。このような感情の主体の外部で、感情が動く時点においてすでに起きた出来事を、宗田(1992)に倣い[外的原因]と呼ぼう。「驚く」「びっくりする」は、[外的原因]の場合、「デ」を使うことができる。もちろん[外的原因]は、次の(21)のように「ニ」も使うことができる。

 (21)雷に驚き、耳をふさいで道端にしゃがみ込んだこともあった。(読売20011109

 これは、「デ」でマークされる「原因」と「二」でマークされる「感情の対象」が、「原因」であれば「感情の対象」ではない、「感情の対象」であれば「原因」ではない、という関係ではなく、「感情の対象」が何らかの条件を満たした場合は、それが「原因」とも言えるということを示している。「おどろく」「びっくりする」は、「感情の対象」が、[外的原因]、つまり感情の主体の外部で、感情が動く時点においてすでに起きた出来事であれば、「原因」と言えるということである。

  ここでは、話者の「感情が動く時点においてすでに起きた出来事」を[外的原因]と名付け、この場合に「デ」を使うことができ、「ニ」も使うことができるとしています。しかし、感情が起こる以上、その原因なしに起こるはずがありません。外的であろうと、内的であろうと出来事、事態の認識により引き起こされるというのが因果関係です。従って、何ら説明にはなりません。この後、

 これは、「デ」でマークされる「原因」と「ニ」でマークされる「感情の対象」が、「原因」であれば「感情の対象」ではない、「感情の対象」であれば「原因」ではない、という関係ではなく、「感情の対象」が何らかの条件を満たした場合は、それが「原因」とも言えるということを示している。「おどろく」「びっくりする」は、「感情の対象」が、[外的原因]、つまり感情の主体の外部で、感情が動く時点においてすでに起きた出来事であれば、「原因」と言えるということである。

 と、纏められていますが全くの誤りです。現実は立体的な因果関係の連鎖ですから、何を原因とし対象とするかは話者の認識の問題です。<「デ」でマークされる「原因」と「二」でマークされる「感情の対象」>という見方が正に言語実体論的な現象論でしかないということです。「マーク」などという機能的な発想の用語がそれを明かしています。話者が対象を原因と認識したことを表現するために、言語規範に基づき格助詞「デ」を用いたのであり、対象と認識した場合には「ニ」を用いて表現するということです。このように、言語の本質の捉え方を誤った論理的必然として、問題の捉え方を誤り、そこから形式論理による最もらしい論理を展開するしかありません。どのような展開となるかを追跡しましょう。■

  
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2015年10月23日

形式主義言語論の「壁塗り交替」という現象論 (7)

   「感情動詞の補語についての一考察 ―「ニ」と「デ」について」(5)

32 格助詞の「デ」ではない「デ」>の第三形容詞を検討してみましょう。

 村木(2002)は、品詞の分類は「統語的な機能を優先させなければならない」としたうえで、統語的な特徴から、「第三形容詞」という品詞を設けるべきであるとしている。村木(2002)の「第三形容詞」とは、「底なし一」「がらあき一」「ひとりよがり・」等である。これらの語は、名詞を限定修飾する際に「ノ」が現れるという形態上の特徴から名詞とされてきが、統語的には、次の4つの特徴を持っていると指摘されている。「補語(主語・目的語)になれないか、なりにくい」、「もっぱら規定語として、名詞を修飾限定する用法で使用される」、「コピュラをともない述語になる」、「副詞に特徴的な連用用法を持っている」の4つである。そして、この4つの特徴は形容詞の特徴であるから、「底なし一」等は、名詞ではなく形容詞であるとしている。

 事物の分類は機能ではなく、本質に基づきなされなければ正しい分類はできません。空を飛ぶからといって、鳥や蝙蝠や蜂を一纏めにし、第一鳥類、第二鳥類、第三鳥類などと分類するようなものです。ここで第三といわれるのは、通常の形容詞を第一とし、「ナ形容詞」を第二とし、「ノ形容詞」を第三と分類しています。ここでは、「ナ」「ノ」が活用とされ、これらを含めて一語とし、述語になるとするわけです。先にも述べたように、形容詞の本質は対象の静的な属性の表現であり、「ナ」「ノ」は主体的な表現を表す単語ですから、全く異質の語を一纏めにし機能の共通性から分類したものです。これは、英語の動詞が動的属性とともに、現在、過去、完了という時制、相の表現が一語に結びついている屈折語という特殊な言語の特性を膠着語という日本語に押しつけて解釈する誤りです。

 言語の本質を道具と見る、機能的な発想が語の分類にまで貫かれるという論理的な強制を受けた誤りといえます。「非文」などというプラグマテイックな方法にたよる生成文法もまた、まともな品詞分類をもたないため、恣意的な他からの借用に頼ることとなります。例に挙げられている、「底なし一」「がらあき一」「ひとりよがり・」等は名詞「底」と接尾語「なし」の複合語であり、「がらあき」は静詞、または状態副詞「がら」と静詞「あき」の複合語、「ひとりよがり」は名詞「ひとり」と動詞「よがる」の連用形が名詞に転成したものとの複合語です。認識を扱えない現在の言語学や国語学では単語の定義さえまともに出来ないのが現状で、分散形態論という生成文法に依拠した語形成論もまた同様です。ここでは、第三形容詞論の借用により、

  そうすると、さきに見た(11)の「盛況」は、4つの特徴を備えており「第三形容詞」であると言える。(12)の「寝耳に水」は慣用句であり、「副詞に特徴的な連用用法」は持っていないが、他の3つの特徴は備えており、「第三形容詞」に近いと言えるだろう。(11)(12)は、「第三形容詞」であるために、述語であると解釈されるのである。

 このように、「第三形容詞」の連用形の「デ」は、ナ形容詞の連用形の「デ」と同様に、「~デ、感情形容詞」という構文においては、述語であるという点で、格助詞の「デ」とは区別することができる。そして、「第三形容詞」の連用形の「デ」も、「二」に言いかえることはできない。

 と述語の活用とされ、格助詞ではないことになってしまいます。次は、「判定詞」なるものが出て来ます。注8を見ると、

 判定詞とは、「名詞と結合して述語を作る」働きをする「ダ」「デアル」「デス」のことである。(益岡・田窪(199225))

 とされます。ここでも、「働き」つまり機能による分類が行われています。音声や紙に書かれた文字が、どうしてこんな機能を発揮できるのかをまず論理的に解明すべきでしょう。それでなければ、単なる現象論か、言霊論でしかありません。説明を見ましょう。 

 次の例は、判定詞「ダ」の連用形の「デ」の例である(以下、判定詞「ダ」の連用形の「デ」を判定詞の「デ」と呼ぶ)注8

 (13)「逮捕は突然のことで{*に}驚いている。大学側から何の連絡もなく、どうしていいかわからない」(読売20090601

 (14) 2年生の次男坊がきかん坊で{*に}困っています。(知恵袋OC1001625

 (13)(14)は、それぞれ「逮捕は突然のことだ」「2年生の次男坊がきかん坊だ」が「驚く」「困る」にかかっているのであり、「突然のことだ」「きかん坊だ」は述語で、(13)(14)の「デ」は判定詞の「デ」である。このように主題・主語が言語化されている判定詞の「デ」は、「二」に言いかえることはできない。

  判定詞とされているのは、肯定判断・指定の助動詞「だ」で、連用形が「で」です。(13)は、「突然の逮捕で驚いている」とすれば、「突然の逮捕」という名詞句で、単に事態を客観的に因果関係で捉えた表現となり、「で」は格助詞で、「突然の逮捕驚いている」と対象の認識としても表現できます。しかし、例文のように、「逮捕は突然のことで」という表現は、「逮捕」を普遍性の認識「は」で主題とし、「突然のこと」と形式名詞「こと」で事態を動かぬものとして媒介的に再確認し、これを肯定、断定する話者の判断表現「で」により、話者の「驚き」という認識が語られています。従って、この場合は肯定判断・指定の助動詞「だ」の連用形「で」です。これを、「述語を作る」などという機能からしか説明できないのでは論理的ではありません。(14)も「2年生のきかん坊の次男」とすれば、格助詞による表現となります。文意から格助詞ではないとする指摘は正しいのですが、論理的な解明ではありません。

 <主題・主語が言語化されている判定詞の「デ」は、「二」に言いかえることはできない。>などと、現象を指摘するだけで、ではいいかえはどうすれば出来るのかを明らかにすることもできません。■

  
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2015年10月19日

形式主義言語論の「壁塗り交替」という現象論 (6)

   「感情動詞の補語についての一考察 ―「ニ」と「デ」について」(4)

 先に続き、次のように記されています。

  また、次のように、「二」と「デ」が共起する場合の「デ」も「二」に言いかえることはできない。

 (8睡眠不足頭痛に悩んでいる。(宗田(1992))

 (9長期に亘る日照りで、作物の不作に苦しんだ。(三原(2000))注4

 (8)(9)の「デ」を「二」に言いかえることができないのも、「感情の対象」と「原因」がそれぞれ存在することによる。

 ここでは、話者が悩み(苦しみ)の原因と結果を因果関係として認識し「~デ~ニ悩む(苦しむ)」という対で表現されているのであり、単に「共起」という現象を捉えても意味がありません。「睡眠不足にも悩んでいる」、「長期に亘る日照りにも苦しんでいる」と言えます。

 また、「睡眠不足と頭痛に(で)悩んでいる」し「長期に亘る日照りと、作物の不作に(で)苦しんだ」とも言える。

 事実として、睡眠不足が原因で頭痛が起こっていても、何を悩みの対象と考え、因果関係をどのように捉え、表現するかは、あくまでも話者の認識の問題です。誤った認識をし、「頭痛で、睡眠不足に悩んでいる」と表現するかもしれないし、どちらが真実かは、表現とは別の問題です。

「二」と「デ」が共起するからといって、意味を問題にしなければ「言いかえる」ことはできるが、意味を考えれば最初から「言いかえる」ことはできないということです。

続いて、<32 格助詞の「デ」ではない「デ」>を見ましょう。

 ところで、「~デ、感情動詞」という構文の用例を集めてみると、格助詞の「デ」ではない「デ」の用例がある。

 まず、次の(10)は、ナ形容詞の連用形の「デ」である

 (10)「簡単で{*に}驚いた。非常食では飽きてくるし、普段の料理に近いものを食べると安心できる」(読売20081223注5

 (10)は、災害時に簡単に作れる料理の講習会に参加し、さばのホイル包み焼きを作った人のコメントである。形容詞は何らかの属性を表すものであり、その属性の持ち主が必要である。(10)の「簡単で」は、言語化されていないが、「さばのホイル包み焼き」が属性の持ち主である。(10)の「簡単で」は、「さばのホイル包み焼きは簡単だ」の「さばのホイル包み焼き」が言語化されていないだけで、述語なのである。「さばのホイル包み焼きは簡単だ」ということが、「驚く」という感情を引き起こしたという点では、「簡単で」は「原因」であると言えるが、述語であるという点で、格助詞の「デ」とは区別することができる。そして、ナ形容詞の連用形の「デ」は、「ニ」に言いかえることはできない。

  「ナ形容詞」などという品詞が持ち出されていますが、このような品詞の分類は誤りです。ここでは、名詞「簡単」に続く「格助詞」の「デ」が原因を表しています。「簡単」は形容詞的な内容を表している漢語で「簡単な作業」というように使用されます。この場合の品詞は活用のない形容詞というべきもので、通常の活用のある形容詞と形容詞的な内容をもつこれらの語を一括して「静詞」と名付けることを三浦つとむが提唱しています。形容詞とは実体の静的な属性を抽象したものです。しかし、ここではその属性を実体的にとらえた名詞として「簡単」が使用されています。

「簡単で」を一語の「ナ形容詞」の連体形とみることは、形容詞の活用と捉えるものですが、「形容詞」とは「属性」の表現であり、話者の主体的認識である原因の認識を表すことはありません。ここでは明らかに原因として認識し表現され、読み手もそのように認識しています。ここで論理が破綻しています。この矛盾を避けるために、「述語」などという規定を唐突に持ち出しているわけですが論理的とはいえません。

 初めの所に、注5が付けられ、次のようになっています。

 10)は、「ニ」に言いかえた場合、「たやすく驚いた」という意味では適格文である。

 と記されているように、「簡単に驚いた」とした場合は「簡単」は名詞ではなく静詞で属性表現の語と判断され、「さばのホイル包み焼き」が簡単なのではなく、「さばのホイル包み焼きを作った人」が「たやすく驚いた」という意味になってしまいます。適格文ではありますが、この文脈では全く意味が異なります。論者は、これをもって<「ニ」に言いかえることはできない>とし、「ナ形容詞」などを持ち出しているわけですが、これはとんだ藪睨みというしかありません。 

 たとえば、<「簡単‼」、驚いた。>と、「簡単」の名詞性を明確にすれば使用できます。また、<簡単なの驚いた>と、抽象名詞の「の」を使用して、「簡単なの」と概念を明確にすれば、「ニ」を使用できます。

  ナ形容詞の連用形の「デ」は、「ニ」に言いかえることはできない。

のではなく、<漢語である静詞「簡単」という語の特性により単に「デ」を「ニ」に言いかえると全く意味が変わってしまう>のです。ここにも、単純に文を実体的に捉え、「言いかえ」と見る発想の誤りが露呈しています。言語表現の本質を正しく理解し、論理的に解明できなければ科学的な言語論とはいえません。■

  
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2015年10月19日

形式主義言語論の「壁塗り交替」という現象論 (5)

    「感情動詞の補語についての一考察―「ニ」と「デ」について」(3)

 2 先行研究と考察の対象では、先に見たように形式主義的な用法の検討に基づき、

  これらのそもそも「デ」を使うことができない動詞を見てみると、「先輩にあこがれる」の「先輩」は「あこがれる」の対象であり、宗田(1992)の言うように「二」は「感情の対象」をマークすると言える。一方の「二」と「デ」を言いかえることができる場合がある動詞も、「地震に驚く」の「地震」は「感情の対象」と言えるであろう。そして「地震で驚く」と言った場合は、「地震」は「驚く」の「原因」である。つまり「地震」は「驚く」の「感情の対象」であり、かつ「原因」でもあるのである。「ニ」をどのような場合に「デ」に言いかえることができるか、という問題は、「感情の対象」がどのような条件を満たせば「原因」と言えるのかという問題である。

 と、感情の対象の条件に単純化され、これに基づき言いかえできるか否かの<条件>を明らかにするという論理展開になります。しかし、人が何かの感情を喚起されるからには何らかの要因があります。そこには因果関係があり、何を対象とし、何を原因とするかは話者の認識の問題であり、その認識が文として表現されます。従って、「言いかえ」とは対象の捉え方の変更あるいは、表現方法の変更として検討すべきものと考えられます。「感情の対象」自体の条件とは考えられませんが、その論理を辿ってみましょう。

 続く<3 「二」が使えるとき・使えないとき>の3.1は次の通りです。

 31 「感情の対象」と「原因」がそれぞれ存在する場合

 「二」は「感情の対象」をマークするものであり、基本的に「二」を使うことができない場合はないと言える。しかし、次の例は、「デ」が使われているが、「二」に言いかえると文意が変わってしまう。

  (7)「斐川の離脱で迷った。合併の答えが出るには二十年はかかる。二市五町で期待していたものをどれだけ二市四町で出来るかだ。市民一丸となって改めて取り組んでいきたい」(読売20031216

 (7)は、7つの市町村で合併を検討していたところ、斐川町という町が合併計画からの離脱を表明し、そのことに対して斐川町に隣接する市の市長がコメントを述べたものである。この例では、「迷った」のは「自分の市が市町村合併に参加するかどうか」であり、これが「感情の対象」である。「斐川の離脱」は、「迷う」の「原因」ではあるが、「感情の対象」ではない。このように、「感情の対象」と「原因」がそれぞれ存在する場合、「原因」を「二」でマークすることはできない。

  ここでは最初に「文意が変わってしまう」のを根拠に<「原因」を「二」でマークすることはできない>とされます。しかし、文意を問題にするのであれば「二」は単に対象の認識を表すものであり、「デ」は理由・誘因の認識を表すものですから、最初から「言いかえ」などありえないことになります。「斐川の離脱迷った」は、「離脱」を「悩み」の原因として認識し表現しています。論者は「斐川の離脱で、自分の市が市町村合併に参加するかどうか迷った」と理解しているのですが、それは論者の認識で、市長がそう表現しているわけではありません。事実をそのように認識し表現することも出来るということです。

 事実は、7つの市町村で合併を検討していたところ、斐川町という町が合併計画からの離脱を表明したため、斐川町に隣接する市が、当初の計画通り合併を推進すべきかが問題となり、検討したが、やはり予定通り市民一丸となって改めて推進に取り組んでいくことになったということです。

最初に<基本的に「二」を使うことができない場合はないと言える>と記された通り、<「斐川の離脱に迷った」>と表現することもできます。これは、「非文」でも「不自然」でもありません。この場合は、市長が単純に「斐川の離脱」を「悩む」という「感情の対象」として捉え表現しています。また「斐川の離脱(の為迷った」の省略形とも捉えられます。そして、次のように続けて表現できます。

 斐川の離脱迷った。合併の答えが出るには二十年はかかる。二市五町で期待していたものをどれだけ二市四町で出来るかだ。市民一丸となって改めて取り組んでいきたい」

 原因である対象を単に対象と捉え表現することは認識の相違であり、それに対応した表現が可能です。市長は、「斐川の離脱」悩み、「自分の市が市町村合併に参加するかどうか」の判断を迫られ、「合併に参加する」ことを決めたと言えます。ある見方からは原因であるものも、見方を変えれば結果でもあり、それぞれの事実は認識の対象でもあります。

このように、<「斐川の離脱」は、「迷う」の「原因」ではあるが、「感情の対象」ではない。>というのは、論者の認識を絶対化した誤りであり、

 このように、「感情の対象」と「原因」がそれぞれ存在する場合、「原因」を「二」でマークすることはできない。

 というのは、対象→認識→表現の過程的構造と、その相対的独立を理解できないための誤りというしかありません。■

  
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2015年10月18日

形式主義言語論の「壁塗り交替」という現象論 (4)

    感情動詞の補語についての一考察 ―「ニ」と「デ」について」(2)

 前回は少し結論を急ぎすぎましたので、もう少し最初から論理展開を追ってみましょう。

 まず、題名ですが、「感情動詞の補語」についての「一考察」となっています。「補語」とは何かですが、デジタル大辞泉の解説をみてみましょう。

 1 《complement》英語・フランス語などの文法で、それだけでは完全な意味を表さない動詞の意をおぎなう  語。“He is rich.” “I make him happy.”のrich, happyの類。

2 日本語で、連用修飾語のうち、主として格助詞「に」「と」などを伴う語。「兄が弟に本を与える」の「弟に」の類。「を」を伴うものを目的語または客語というのに対する。

このように、本来は英語文法等の概念で、これを日本語にも適用したものです。そして、<主として格助詞「に」「と」などを伴う語>で格助詞「に」「で」そのものではありません。格助詞「に」と「で」の考察ではなく、感情動詞の<意味を補う語>の考察ということで、ここに、現象的・形式的な見方が示されています。

 そして、<問題の所在>では、<感情動詞には、「子を愛する」のようにヲ格をとるものと、「金に困る」のように二格をとるものがあり>と、先の「補語」の定義では<「を」を伴うものを目的語または客語というのに対する>「に」「と」なのですが、現象論的に「ヲ格をとるもの」「ニ格をとるもの」と質的な相違を無視して並置されます。さらに、 

  後者については、「ニ」と「デ」の言いかえが可能な場合があることが指摘されている。

 と、目的語との関連を無視したまま<「ニ」と「デ」の言いかえ>の問題に進みます。「ニ」と「デ」を伴う連用修飾語は補語ですが、「を」は目的語として通常は区別されるのですが、ここは無視されます。生成文法にはまともな品詞論がないのです。そして

     a 人手不足に悩む      b 人手不足で悩む  (作例)

   a 地震に驚く        b 地震で驚く    (作例)  

と「言いかえ」の例が示されます。これを、「言いかえ」とする根拠は「」を機械的に「で」に置き替えても違和感がない、「意味が通る」ので生成文法でいう「非文」ではないという判断です。しかし、「人手不足に悩む」は悩む対象を単にスタッティックに捉え表現しているにすぎず、「人手不足で悩む」は悩みの要因・原因を表現しているのであり、単なる「言いかえ」ではなく、話者の認識の表現、すなわち意味が異なる文です。論者はその点を問題として捉えることなく、「言いかえ」の例としています。さらに、その根拠を、

  「二」と「デ」を言いかえることができる場合があるのは、述語が感情動詞の場合、「ニ」が「感情の動きの誘因」を表す(寺村1982139)とされ、「デ」が多くの用法のひとつとして、「原因」を表すことがあるためと考えられる。

 とします。まず、寺村秀夫(1982)『日本語のシンタクスと意味1』での、<述語が感情動詞の場合、「ニ」が「感情の動きの誘因」を表す>という指摘を肯定しています。これが妥当か否かをまず検討する必要があります。デジタル大辞泉の解説を見ましょう。

 に】

  [格助]名詞、名詞に準じる語、動詞の連用形・連体形などに付く。

1 動作・作用の行われる時・場所を表す。「三時―間に合わせる」「紙上―発表する」

2 人・事物の存在や出現する場所を表す。「庭―池がある」「右―見えるのが国会議事堂です」

3 動作・作用の帰着点・方向を表す。「家―着く」「東―向かう」

4 動作・作用・変化の結果を表す。「危篤―陥る」「水泡―帰する」

5 動作・作用の目的を表す。「見舞い―行く」「迎え―行く」

6 動作・作用の行われる対象・相手を表す。「人―よくかみつく犬」「友人―伝える」

7 動作・作用の原因・理由・きっかけとなるものを示す。…のために。…によって。「あまりのうれしさ―泣き出す」「退職金をもとで―商売を始める」

8 動作・作用の行われ方、その状態のあり方を表す。「直角―交わる」「会わず―帰る」

9 資格を表す。…として。「委員―君を推す」

10 受け身・使役の相手・対象を表す。「犬―かまれた」「巣箱を子供たち―作らせる」

11 比較・割合の基準や、比較の対象を表す。「君―似ている」「一日―三回服用する」

12 (場所を示す用法から転じて、多く「には」の形で)敬意の対象を表す。「博士―は古稀(こき)の祝いを迎えられた」「先生―はいかがお過ごしですか」

13 (動詞・形容詞を重ねて)強意を表す。「騒ぎ―騒ぐ」

14 「思う」「聞く」「見る」「知る」などの動詞に付いて状態・内容を表す。

15 比喩(ひゆ)の意を表す。

この、7.の「動作・作用の原因・理由・きっかけとなるものを示す。」が該当するわけですが、この説明も語の意義と文の意味を混同している所があると言わなければなりません。この説明に続けて「…のために」、「…によって」と記されているように「原因・理由」の認識はそれに続く語が担っているのであり、「に」は単にスタッティックな事物のありかたの方向、対象との結び付きを意識しているだけで、「原因・理由」を意識しているのではないのです。12.や3.が時や場所や「動作・作用の帰着点・方向を表す」と記し、6.で「動作・作用の行われる対象・相手を表す」と記すように、格助詞「に」そのものはスタッティックな対象との結び付きの認識でしかありません。文脈での意味を「語」の意義に持ち込んでしまう解釈が上記の記述に表れています。

これは、現在の言語学、国語学が語の意味と言うときに、語の規範である意義と、文脈上での意味の二つが関連はあるが異なることが理解されていないことによります。

「に」対し、「子を愛する」の格助詞「を」はダイナミックな認識を表します。そして、格助詞「で」こそが、「原因・理由」を意識し表現しているのです。この事実を踏まえて、続けて検討していきましょう。■

  
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2015年10月15日

形式主義言語論の「壁塗り交替」という現象論 (3)

     「 感情動詞の補語についての一考察 ―「ニ」と「デ」について」(1)

  作用を表す動詞に関する「壁塗り交替」という現象論を見ましたが、感情動詞の補語、あるいはニ格~デ格の格交替の問題を考察している国語学、日本語学の論考があります。本質的には同じ問題ですが、これらの論を見てみましょう。

①「 感情動詞の補語についての一考察―「ニ」と「デ」について」村上佳恵(2010

②「ニ格とデ格の交替について」張 麗(2013

③「感情動詞におけるニ格とデ格の交替について」張 麗(2014

まず、①について、詳しく検討してみましょう。次のように問題が提起されます。

 1 問題の所在

 感情動詞には、「子を愛する」のようにヲ格をとるものと、「金に困る」のようにニ格をとるものがあり、後者については、「ニ」と「デ」の言いかえが可能な場合があることが指摘されている。

 (1a 人手不足に悩む      b 人手不足で悩む   (作例)

 (2a 地震に驚く        b 地震で驚く      (作例)

「ニ」と「デ」を言いかえることができる場合があるのは、述語が感情動詞の場合、「ニ」が「感情の動きの誘因」を表す(寺村1982139)とされ、「デ」が多くの用法のひとつとして、「原因」を表すことがあるためと考えられる。しかし、次のように、「デ」に言いかえることができない「ニ」があることも事実である。

 (3a 彼女の優しさに驚いた   b ?彼女の優しさで驚いた。  (作例)

本稿では、感情動詞の補語をマークする「ニ」が、どのような場合に「デ」に言いかえることができるのかを考察する。

  ここでも、<「二」が、どのような場合に「デ」に言いかえることができるのか>と「言い替え」の問題として捉えられています。この論考は、<感情動詞の補語をマークする「ニ」>と格助詞「ニ」が「補語のマーカー」とされるように生成文法に依拠しています。そして、<用例の「*」は、その文が非文であること、「?」は不自然であることを示す。>と、先に生成文法の主観的判定基準として指摘した「非文」が出て来ます。

まず問題になるのは、「言い替え」とは何を言っているのかです。「問題の所在」で、「言いかえることができる」のは「ニ」が「感情の動きの誘因」を表し、「デ」が多くの用法のひとつとして、「原因」を表すことがあるためと考えられる>と記すように、用法が異なった表現ではあるが「非文」や「不自然」でなければ「言いかえ」が成立すると見なされていることです。表現としての言語として見れば、用法が異なるということは話者の認識が異なるのであり、当然のこととして、表現された文の意味は異なります。つまり、「言いかえ」ではありません。これを「言いかえ」と見なすには、その認識の対象である事実が同じと判断し、認識を無視する他ありません。そして、この、事実が同じか否かの判断は、その文が「非文」か「不自然」かという論者の主観的判断によるしかありません。ここに、これまで指摘してきた形式主義言語論であり、プラグマティックな発想に依拠する生成文法の本質が示されています。

実際に、22 「二」と「デ」について>の最後で、

 「二」をどのような場合に「デ」に言いかえることができるか、という問題は、「感情の対象」がどのような条件を満たせば「原因」と言えるのかという問題である。

 とされ、「感情の対象」である、事実あるいは想像の条件を検討することになります。しかし、対象と認識は相対的に独立しており、さらに認識と表現もまた相対的に独立しています。そして個別の対象は多様な、属性、構造、関係をもっています。このような方法での検討に意味があるとは思えません。生成文法に依拠する発想、論理がどのようなものであるか、以下少し詳しく見てみましょう。

 まず、2 先行研究と考察の対象  21 格助詞「デ」について>を見ましょう。最初に次のように記しています。

  格助詞の「デ」は、前にくる名詞句と、後ろにくる述語の意味によって、さまざまな用法があることが知られている。

  格助詞の用法、つまり機能が「前にくる名詞句と、後ろにくる述語の意味によって」決まるとされます。つまり、格助詞自身が意味をもっているのではなく、無限にある文の中で前後の関係から用法が決まると言っています。それは多分、人間がもっている普遍文法が決めるとでも考えるしかないのかもしれません。単語の意味、意義とは規範であり、助詞とは主体的表現の語であり、客観的な対象の持つつながりの認識の表現とみなす言語過程説の立場とは全く逆の発想といわねばなりません。言語とは、このような規範を媒介とした話者の認識の表現で、このような規範なしに表現も受け手の理解も成立しようがありません。

生成文法の発想は、現象、機能を本質と取り違えるところから始まっていると思われます。「2.」の纏めは、先の結論となります。 

「地震驚く」の「地震」は「感情の対象」と言えるであろう。そして「地震驚く」と言った場合は、「地震」は「驚く」の「原因」である。つまり「地震」は「驚く」の「感情の対象」であり、かつ原因」でもあるのである。「二」をどのような場合に「デ」に言いかえることができるか、という問題は、「感情の対象」がどのような条件を満たせば「原因」と言えるのかという問題である。■

  
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2015年10月14日

形式主義言語論の「壁塗り交替」という現象論 (2)

 先の論考①「壁塗り交替についての考察」で、 

   a.ジョンは、壁にペンキを塗った。(〜ニ〜ヲ)   b.ジョンは、壁をペンキで塗った。(〜ヲ〜デ) 

に対し、(a)は、「その結果としての壁の状態は言及していない。したがって、壁の一部にしかペンキが塗られていない状況を表現することが可能である。」や、(b)では、「壁全体がペンキで塗られたという解釈が強くなる。結果的に、一般的な状況のもとで、壁の一部にしかペンキが塗られていないという事象を表現することはできない。」というのは、「壁塗り交替」という現象を前提にしているための強引な推論に過ぎず、文とは対象の認識の表現であることを考えれば、形式的に格助詞を入れ替えた形は単に語の形式的な羅列に過ぎず、認識が対応していないので本来の文ではないことになります。それを、論者の経験の中にある形式と結びつけ、逆に対象を想像しているだけとなります。本来の文としての「ジョンは、壁にペンキを塗った」という表現は、この一文だけでは先に理解したように、「壁に塗った」という事実の認識の表現としか読みとれません。しかし、実際の会話や文章の文脈においては、前後の文脈で「壁」や「ペンキ」は「家の壁」「倉庫の壁」や「赤いペンキ」「白いペンキ」という具体的な意味が与えられ、その状況が知られて理解されます。それが、表現としての文章での具体的な意味となります。

 ④「壁塗り代換を起こす動詞と起こさない動詞:交替の可否を決定する意味階層の存在」では、

 一方,次の「付ける」や「汚す」等のように,こうした交替を起こさない動詞もある。

 3a.壁にペンキを付ける      b*壁をペンキで付ける

 (4a.*壁にペンキを汚す      b.壁をペンキで汚す

 と形式的な格助詞の交替により、意味を成さない例が検討されます。これまでの先行研究では、

 概ね、「塗る」等の動詞が交替を起こすのは位置変化と状態変化の両方を表すからであると論じられてきた。たとえば奥津(1981:左32)は.「(川野注:「塗る」等の交替動詞は)移動動詞の格の枠と,変化動詞の格の枠とをあわせた二重の格の枠をもつ動詞であり,そのどちらの枠を選ぶかによって,表層の格のちがい.つまり代換が壁塗り代換を起こす動詞と起こさない動詞説明できる」と述べている

 と先行研究が紹介されていますが、実際には論者が、その文形式に対応する意味が現実と対応する例を見つけられないため非文と判断しているに過ぎません。本来は現実の現象に対応した認識、またはそれに即した再構成の空想が認識され表現されるわけですが、そのような例は存在しないため形式的な文も非文と判断されることになります。

このように、「壁塗り交替」という現象的な捉え方自体が誤りであることが判明すれば、全く無意味な論を展開していることが判ります。

②「いわゆる「壁塗り交替」について―構文は交替しない.単に(意味の相互調節に基づいて)選択されるだけである―」では、「彼はその仮説の立証のために,わざわざ三本の論文を費やした」に対し、

 (5) X∗, Y, V2 = 費やす (非交替)

 a. P1: *彼は [X∗ の仮説の実証] [Y三本の論文]で費やした b. P2: 彼は [X∗その仮説の実証][Y三本の論文]を費やした

  (6) X∗, Y, V1 = する (おしくも非交替)

  a.?彼は [X∗ その仮説の実証] [Y 三本の論文]でした b. *彼は [X∗ その仮説の実証] [Y三本の論文]をした

 に対し、

  問題 1: (6a, b) のような,交替しそうでしない例で[V2: “する”⇒ V2 = 費やす”]のように語彙を変化させて「意味が通る」ようにできるのは,いったいなぜなのか? (しかも,(5) から明らかであるように,V2 =“費やす” が交替を許す動詞だというわけでもない)

 と、非交替の動詞が場合によっては交替を許すのは何故かを問題にしています。そして、「派生が構文間の競合の副産物だと言う主張」を導きだし、「それなりの説明モデル」を提起しています。これも、単に形式的な語の交替による文形式を作り、後から、現実に対応する認識があり得るのかを検証しているもので、論理的に逆転していることが理解出来ていません。

 この論文を書かれた黒田航氏は、「純粋内観批判―生成言語学の対抗馬であるだけでは認知言語学は言語の経験科学にならない(2005)という論稿で、認知言語学の現状に対し、

  あまりに多くの認知言語学者が認知言語学も客観主義と融和する必要性を理解していない.彼らの多くは客観主義や実証性を敵対視する「腐れ人文主義」に染まっている。彼らはそのくせ、自分たちのやっていることが言語の「科学」であると言う.正直なところ,これが仮にも「研究者」と呼ばれる人々の発言だとは私には信じられない.それは私が研究者だと思っている人たちの特性とはあまりに違う。

 と鋭い科学性に対する批判を展開されていますが、「科学」を単に経験科学とし、自然科学の一類と捉えている限り「言語の科学」の展開を望むことはできません。■

  
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2015年10月13日

形式主義言語学の 「壁塗り交替」 という現象論 (1)

生成文法の形式主義、言語実体観の誤りについて見て来ましたが、これらの影響下にある現代言語学の現象論の事例として「壁塗り交替」について考えてみます。Net上で次の論考を見ることができます。

①「壁塗り交替についての考察」佐藤章子(2002)

②「いわゆる「壁塗り交替」について―構文は交替しない.単に(意味の相互調節に基づいて)選択されるだけである―」黒田航(2005

③「構文文法に基づく日本語他動詞文の分析―壁塗り交替を事例に―」永田,由香(2005

④「壁塗り代換を起こす動詞と起こさない動詞:交替の可否を決定する意味階層の存在」川野靖子(2009

⑤「現代日本語の動詞「詰める」「覆う」の分析―格体制の交替の観点から―」川野靖子(2012 

「壁塗り交替」と呼ばれているのは、 

   a. ジョンは、壁ペンキ塗った。(〜ニ〜ヲ)  b. ジョンは、壁ペンキ塗った。(〜ヲ〜デ)

という様に、同じ「壁塗り」という現象が「~に~を」という文と、「~を~で」という二つの構文で表現されるのを捉え名付けられたものです。「塗る(った)」という動詞の形態が変わらない二つの構文を「壁塗り交替」と呼んでいます。これは英語でも同じで、①では、

   a. John sprayed paint on the wall.     b.  John sprayed the wall with paint.

の例を取り上げています。そしてこの二つの文が同じ意味なのか、相違するとすれば、何が異なるのか、その理由は、さらに「壁塗り交替」の出来ない動詞との相違の究明がテーマとなっています。①では、認知言語学の立場から、次のような解釈が提示されています。(以下、色付け、強調は評者。)

(a)では動詞から近い位置にあるのは移動物であるペンキ(paint)なので、動詞の影響を大きく受けているのはペンキである。ペンキに対する動詞の影響といえば普通は、「ペンキの壁への移動」だと考えられるため“移動”を叙述した文だと言える。また、pour型の構文を使っていることから、動詞の意味構造の<変化(移動)>の部分に焦点があてられているので、その結果としての壁の状態は言及していない。したがって、壁の一部にしかペンキが塗られていない状況を表現することが可能である。これに対し(b)では、動詞の影響を大きく受けるのは場所名詞である壁(thewall)である。壁に対する動詞の影響が大きいということは一般的に、「壁がペンキで塗り尽くされた」という事態が考えられるので“結果状態”を叙述した文ということになる。fill型の構文であるため、意味構造の<結果状態>の部分に焦点をあてて表現しているので、壁全体がペンキで塗られたという解釈が強くなる。結果的に、一般的な状況のもとで、壁の一部にしかペンキが塗られていないという事象を表現することはできない

表現形式が異なるだけで論理的な意味は等しいとされてきた2つの構文だが、ある状況を表現するのにどの部分に焦点をあてるかが異なっているということがわかった。形式の違いが意味に反映されるということは、どの形式を選択して表現するかによって、話者の認知の仕方が示されているといえるだろ。

ここでは、「動詞の意味構造」なるものが問題とされ、「ペンキに対する動詞の影響」を「大きく受ける」部分への話者の認知の仕方が問題とされています。すなわち、「動詞から近い位置にあるのは移動物であるペンキ(paint)」なので」、「動詞の影響を大きく受けているのはペンキ」であり、「動詞の影響を大きく受けるのは場所名詞である壁(the wall)である」と<動詞>の意味によらず、<動詞>自体が何かに影響を与えるという言語実体観による形式的な解釈が示されています。

言語過程説では、言語とは対象―認識―表現の過程的構造に支えられた表現ですから、この文に表現されている話者の認識が明らかにされなければなりません。これを「ジョンは、壁にペンキを塗った」について、丁寧に辿ってみましょう。

「ジョンは」と始まっていますから、他のビルやスミスではなく、ジョンという人の特殊性の認識を表しています。そのジョンが「壁に」ですから格助詞「に」は、<帰着点や動作の及ぶ方向を表す>ので、ここでは、<目標・対象などを指定する>ことになり、「壁」という動作対象の目標認識を示しています。次に、「ペンキを」で、格助詞「を」が<動作・作用の対象を表>しますから「ペンキ」が動作対象であることを認識しています。そして、「塗る」という動詞が<物の表面に液や塗料,また,ジャム・バターなどをなすりつける>動作の認識を示し、助動詞「た」が、これまでの内容が今現在ではなく、過去の事実であった認識を示しています。このように見てくれば、この文の意味は明瞭となります。意味とは、話者の認識と表現された形である文との関係ですから、この文が話者の認識と結びついているのが判ります。「ジョンは、壁をペンキで塗った」もまた、同様に意味をもち、対象が「壁」であり、材料、手段が「ペンキ」であることが示されています。つまり、この2つの文は、対象の認識が異なるのであり、格助詞「に」「を」「で」はそれぞれの話者の認識を表現しているのであり、交替をしているのでも何でもなく、話者の認識の相違に対応しています。

このように、対象―認識―表現という過程的構造を捉えられない、言語実体観という形式主義的な見方では単に表現された文や語という形自体か、認識抜きの対象と形との関係にすべての要因、原因を求めざるを得ないことになります。そして、単に文の形の比較から格助詞の交替という現象に意味があるという誤った判断に導かれます。

認知に注目した認知言語学も又、上に見るように「動詞に近い位置にある」「移動物」「場所名詞」などという、話者の認識を示す語の本質とは無関係な語順や名詞の属性という形式を問題にするしかないというのが実情です。

「壁塗り交替」などという形式的な現象を捉えるしかないところに現在の言語学の限界が露呈しています。さらに、もう少し内容を検討してみましょう。■

  
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2015年10月11日

「天の原ふりさけ見れば…」― 万葉学の現在 再考(2)

 万葉集の巻二・一四七番歌、

天の原 振り放け見れば 大君の 御壽は長く 天足らしたり

を阿倍仲麻呂は知っていた、という所まで論及しましたが、この後次のように論じられています。第五項全部を引用します。

 阿倍仲麻呂は、この歌を知っていた。わたしはそう思う。なぜなら、この先行歌を知らずに、偶然同じ場所(「天の原」)で、同じ上の句を使って、その歌を作った。そんな偶然など、あるものではない。だから、当然、知っていて作った。そう考えるほかはない。おそらく「本当の作歌者名(Y)」も、知っていたことであろう。
 このように考えてみると、仲麻呂の歌は、かつてとは、全く異なった「光」を帯びて輝くことに気づかざるをえないであろう。
 彼のおかれていた状況を摘記してみよう。
 第一、(従来の理解とは異なり)九州近辺の出身だった。宝満山(三笠山)の西麓、大宰府近傍の地に久しく住んでいたように見える。
 第二、彼の生きた八世紀前半、すでに「倭国」(九州王朝)は滅亡していた。代わって近畿天皇家による「日本国」の時代となっていた。
 第三、彼は若くして俊秀、ために霊亀二年(七一六)遣唐使の一員に加えられたという。もちろん、「日本国」の一人としてである。
 第四、彼は、故郷の九州の博多湾岸を出航し、壱岐の北端部「天の原」に至った。ここを過ぎれば、もはや九州を見ることはない。「日本を去る歌」を作ったのである。
 第五、彼は、この地で、かつて先人が作った歌を知っていた。その先人は、今は滅亡した「倭国」(九州王朝)の将兵として、白村江の戦へと出発していった。その時「倭国の永遠」のみを信じていたのである。
 しかし今(八世紀中葉)、その「倭国」は滅亡し、近畿中心の「日本国」にとって代わられた。
 人々は、昨日の「倭国への忠誠」を忘れたように、新しい「日本国」の近畿に向って「忠誠の心」を転じていた。
 その中における「日本国の遣唐使の一員」に、彼は加えられたのである。
 以上のような「状況」において、彼の歌を再読してみよう。そこには次のような含意が感ぜられないであろうか。
 <その一>かつて白村江の戦へと出で立っていた人々、その将兵の上にも、あの「三笠山に出でし月」はその光を照らしていた。
 <その二>はるか古え“天国より降臨した”として侵入し、支配した「倭国の始祖」ニニギノミコトがこの博多湾を“満面の勝利感”を以て闊歩していた時、あの「三笠の山に出でし月」はその姿を照らしていたことであろう。
 <その三>その後、「倭国」は白村江に敗れ、三〇年数年後、滅亡した。人々は筑紫への忠誠を止め、ひたすら心を大和へと向けはじめた。その人々の姿をもまた、「三笠の山に出でし月」は変わらず照らしていた。
 <その四>そして今、奇しき運命を以て、「日本国から大唐へ」の遣支団の一員となって、日本を去ろうとしている自分、その面前に月が照っている。これもあの「三笠の山に出でし月」の変らぬ光なのであろう。
 以上、仲麻呂は“変わりゆく世の相(すがた)”に対し、不変なるもののシンボルとして、「三笠の山に出でし月」を見つめていたのではあるまいか。

 通説の大和の三笠山では、とてもこのような深い、古田氏の敗戦体験にも支えられた、心の琴線に触れる理解は望むべくもありません。■  
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