2015年10月23日

形式主義言語論の「壁塗り交替」という現象論 (7)

   「感情動詞の補語についての一考察 ―「ニ」と「デ」について」(5)

32 格助詞の「デ」ではない「デ」>の第三形容詞を検討してみましょう。

 村木(2002)は、品詞の分類は「統語的な機能を優先させなければならない」としたうえで、統語的な特徴から、「第三形容詞」という品詞を設けるべきであるとしている。村木(2002)の「第三形容詞」とは、「底なし一」「がらあき一」「ひとりよがり・」等である。これらの語は、名詞を限定修飾する際に「ノ」が現れるという形態上の特徴から名詞とされてきが、統語的には、次の4つの特徴を持っていると指摘されている。「補語(主語・目的語)になれないか、なりにくい」、「もっぱら規定語として、名詞を修飾限定する用法で使用される」、「コピュラをともない述語になる」、「副詞に特徴的な連用用法を持っている」の4つである。そして、この4つの特徴は形容詞の特徴であるから、「底なし一」等は、名詞ではなく形容詞であるとしている。

 事物の分類は機能ではなく、本質に基づきなされなければ正しい分類はできません。空を飛ぶからといって、鳥や蝙蝠や蜂を一纏めにし、第一鳥類、第二鳥類、第三鳥類などと分類するようなものです。ここで第三といわれるのは、通常の形容詞を第一とし、「ナ形容詞」を第二とし、「ノ形容詞」を第三と分類しています。ここでは、「ナ」「ノ」が活用とされ、これらを含めて一語とし、述語になるとするわけです。先にも述べたように、形容詞の本質は対象の静的な属性の表現であり、「ナ」「ノ」は主体的な表現を表す単語ですから、全く異質の語を一纏めにし機能の共通性から分類したものです。これは、英語の動詞が動的属性とともに、現在、過去、完了という時制、相の表現が一語に結びついている屈折語という特殊な言語の特性を膠着語という日本語に押しつけて解釈する誤りです。

 言語の本質を道具と見る、機能的な発想が語の分類にまで貫かれるという論理的な強制を受けた誤りといえます。「非文」などというプラグマテイックな方法にたよる生成文法もまた、まともな品詞分類をもたないため、恣意的な他からの借用に頼ることとなります。例に挙げられている、「底なし一」「がらあき一」「ひとりよがり・」等は名詞「底」と接尾語「なし」の複合語であり、「がらあき」は静詞、または状態副詞「がら」と静詞「あき」の複合語、「ひとりよがり」は名詞「ひとり」と動詞「よがる」の連用形が名詞に転成したものとの複合語です。認識を扱えない現在の言語学や国語学では単語の定義さえまともに出来ないのが現状で、分散形態論という生成文法に依拠した語形成論もまた同様です。ここでは、第三形容詞論の借用により、

  そうすると、さきに見た(11)の「盛況」は、4つの特徴を備えており「第三形容詞」であると言える。(12)の「寝耳に水」は慣用句であり、「副詞に特徴的な連用用法」は持っていないが、他の3つの特徴は備えており、「第三形容詞」に近いと言えるだろう。(11)(12)は、「第三形容詞」であるために、述語であると解釈されるのである。

 このように、「第三形容詞」の連用形の「デ」は、ナ形容詞の連用形の「デ」と同様に、「~デ、感情形容詞」という構文においては、述語であるという点で、格助詞の「デ」とは区別することができる。そして、「第三形容詞」の連用形の「デ」も、「二」に言いかえることはできない。

 と述語の活用とされ、格助詞ではないことになってしまいます。次は、「判定詞」なるものが出て来ます。注8を見ると、

 判定詞とは、「名詞と結合して述語を作る」働きをする「ダ」「デアル」「デス」のことである。(益岡・田窪(199225))

 とされます。ここでも、「働き」つまり機能による分類が行われています。音声や紙に書かれた文字が、どうしてこんな機能を発揮できるのかをまず論理的に解明すべきでしょう。それでなければ、単なる現象論か、言霊論でしかありません。説明を見ましょう。 

 次の例は、判定詞「ダ」の連用形の「デ」の例である(以下、判定詞「ダ」の連用形の「デ」を判定詞の「デ」と呼ぶ)注8

 (13)「逮捕は突然のことで{*に}驚いている。大学側から何の連絡もなく、どうしていいかわからない」(読売20090601

 (14) 2年生の次男坊がきかん坊で{*に}困っています。(知恵袋OC1001625

 (13)(14)は、それぞれ「逮捕は突然のことだ」「2年生の次男坊がきかん坊だ」が「驚く」「困る」にかかっているのであり、「突然のことだ」「きかん坊だ」は述語で、(13)(14)の「デ」は判定詞の「デ」である。このように主題・主語が言語化されている判定詞の「デ」は、「二」に言いかえることはできない。

  判定詞とされているのは、肯定判断・指定の助動詞「だ」で、連用形が「で」です。(13)は、「突然の逮捕で驚いている」とすれば、「突然の逮捕」という名詞句で、単に事態を客観的に因果関係で捉えた表現となり、「で」は格助詞で、「突然の逮捕驚いている」と対象の認識としても表現できます。しかし、例文のように、「逮捕は突然のことで」という表現は、「逮捕」を普遍性の認識「は」で主題とし、「突然のこと」と形式名詞「こと」で事態を動かぬものとして媒介的に再確認し、これを肯定、断定する話者の判断表現「で」により、話者の「驚き」という認識が語られています。従って、この場合は肯定判断・指定の助動詞「だ」の連用形「で」です。これを、「述語を作る」などという機能からしか説明できないのでは論理的ではありません。(14)も「2年生のきかん坊の次男」とすれば、格助詞による表現となります。文意から格助詞ではないとする指摘は正しいのですが、論理的な解明ではありません。

 <主題・主語が言語化されている判定詞の「デ」は、「二」に言いかえることはできない。>などと、現象を指摘するだけで、ではいいかえはどうすれば出来るのかを明らかにすることもできません。■

  
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2015年10月19日

形式主義言語論の「壁塗り交替」という現象論 (6)

   「感情動詞の補語についての一考察 ―「ニ」と「デ」について」(4)

 先に続き、次のように記されています。

  また、次のように、「二」と「デ」が共起する場合の「デ」も「二」に言いかえることはできない。

 (8睡眠不足頭痛に悩んでいる。(宗田(1992))

 (9長期に亘る日照りで、作物の不作に苦しんだ。(三原(2000))注4

 (8)(9)の「デ」を「二」に言いかえることができないのも、「感情の対象」と「原因」がそれぞれ存在することによる。

 ここでは、話者が悩み(苦しみ)の原因と結果を因果関係として認識し「~デ~ニ悩む(苦しむ)」という対で表現されているのであり、単に「共起」という現象を捉えても意味がありません。「睡眠不足にも悩んでいる」、「長期に亘る日照りにも苦しんでいる」と言えます。

 また、「睡眠不足と頭痛に(で)悩んでいる」し「長期に亘る日照りと、作物の不作に(で)苦しんだ」とも言える。

 事実として、睡眠不足が原因で頭痛が起こっていても、何を悩みの対象と考え、因果関係をどのように捉え、表現するかは、あくまでも話者の認識の問題です。誤った認識をし、「頭痛で、睡眠不足に悩んでいる」と表現するかもしれないし、どちらが真実かは、表現とは別の問題です。

「二」と「デ」が共起するからといって、意味を問題にしなければ「言いかえる」ことはできるが、意味を考えれば最初から「言いかえる」ことはできないということです。

続いて、<32 格助詞の「デ」ではない「デ」>を見ましょう。

 ところで、「~デ、感情動詞」という構文の用例を集めてみると、格助詞の「デ」ではない「デ」の用例がある。

 まず、次の(10)は、ナ形容詞の連用形の「デ」である

 (10)「簡単で{*に}驚いた。非常食では飽きてくるし、普段の料理に近いものを食べると安心できる」(読売20081223注5

 (10)は、災害時に簡単に作れる料理の講習会に参加し、さばのホイル包み焼きを作った人のコメントである。形容詞は何らかの属性を表すものであり、その属性の持ち主が必要である。(10)の「簡単で」は、言語化されていないが、「さばのホイル包み焼き」が属性の持ち主である。(10)の「簡単で」は、「さばのホイル包み焼きは簡単だ」の「さばのホイル包み焼き」が言語化されていないだけで、述語なのである。「さばのホイル包み焼きは簡単だ」ということが、「驚く」という感情を引き起こしたという点では、「簡単で」は「原因」であると言えるが、述語であるという点で、格助詞の「デ」とは区別することができる。そして、ナ形容詞の連用形の「デ」は、「ニ」に言いかえることはできない。

  「ナ形容詞」などという品詞が持ち出されていますが、このような品詞の分類は誤りです。ここでは、名詞「簡単」に続く「格助詞」の「デ」が原因を表しています。「簡単」は形容詞的な内容を表している漢語で「簡単な作業」というように使用されます。この場合の品詞は活用のない形容詞というべきもので、通常の活用のある形容詞と形容詞的な内容をもつこれらの語を一括して「静詞」と名付けることを三浦つとむが提唱しています。形容詞とは実体の静的な属性を抽象したものです。しかし、ここではその属性を実体的にとらえた名詞として「簡単」が使用されています。

「簡単で」を一語の「ナ形容詞」の連体形とみることは、形容詞の活用と捉えるものですが、「形容詞」とは「属性」の表現であり、話者の主体的認識である原因の認識を表すことはありません。ここでは明らかに原因として認識し表現され、読み手もそのように認識しています。ここで論理が破綻しています。この矛盾を避けるために、「述語」などという規定を唐突に持ち出しているわけですが論理的とはいえません。

 初めの所に、注5が付けられ、次のようになっています。

 10)は、「ニ」に言いかえた場合、「たやすく驚いた」という意味では適格文である。

 と記されているように、「簡単に驚いた」とした場合は「簡単」は名詞ではなく静詞で属性表現の語と判断され、「さばのホイル包み焼き」が簡単なのではなく、「さばのホイル包み焼きを作った人」が「たやすく驚いた」という意味になってしまいます。適格文ではありますが、この文脈では全く意味が異なります。論者は、これをもって<「ニ」に言いかえることはできない>とし、「ナ形容詞」などを持ち出しているわけですが、これはとんだ藪睨みというしかありません。 

 たとえば、<「簡単‼」、驚いた。>と、「簡単」の名詞性を明確にすれば使用できます。また、<簡単なの驚いた>と、抽象名詞の「の」を使用して、「簡単なの」と概念を明確にすれば、「ニ」を使用できます。

  ナ形容詞の連用形の「デ」は、「ニ」に言いかえることはできない。

のではなく、<漢語である静詞「簡単」という語の特性により単に「デ」を「ニ」に言いかえると全く意味が変わってしまう>のです。ここにも、単純に文を実体的に捉え、「言いかえ」と見る発想の誤りが露呈しています。言語表現の本質を正しく理解し、論理的に解明できなければ科学的な言語論とはいえません。■

  
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2015年10月19日

形式主義言語論の「壁塗り交替」という現象論 (5)

    「感情動詞の補語についての一考察―「ニ」と「デ」について」(3)

 2 先行研究と考察の対象では、先に見たように形式主義的な用法の検討に基づき、

  これらのそもそも「デ」を使うことができない動詞を見てみると、「先輩にあこがれる」の「先輩」は「あこがれる」の対象であり、宗田(1992)の言うように「二」は「感情の対象」をマークすると言える。一方の「二」と「デ」を言いかえることができる場合がある動詞も、「地震に驚く」の「地震」は「感情の対象」と言えるであろう。そして「地震で驚く」と言った場合は、「地震」は「驚く」の「原因」である。つまり「地震」は「驚く」の「感情の対象」であり、かつ「原因」でもあるのである。「ニ」をどのような場合に「デ」に言いかえることができるか、という問題は、「感情の対象」がどのような条件を満たせば「原因」と言えるのかという問題である。

 と、感情の対象の条件に単純化され、これに基づき言いかえできるか否かの<条件>を明らかにするという論理展開になります。しかし、人が何かの感情を喚起されるからには何らかの要因があります。そこには因果関係があり、何を対象とし、何を原因とするかは話者の認識の問題であり、その認識が文として表現されます。従って、「言いかえ」とは対象の捉え方の変更あるいは、表現方法の変更として検討すべきものと考えられます。「感情の対象」自体の条件とは考えられませんが、その論理を辿ってみましょう。

 続く<3 「二」が使えるとき・使えないとき>の3.1は次の通りです。

 31 「感情の対象」と「原因」がそれぞれ存在する場合

 「二」は「感情の対象」をマークするものであり、基本的に「二」を使うことができない場合はないと言える。しかし、次の例は、「デ」が使われているが、「二」に言いかえると文意が変わってしまう。

  (7)「斐川の離脱で迷った。合併の答えが出るには二十年はかかる。二市五町で期待していたものをどれだけ二市四町で出来るかだ。市民一丸となって改めて取り組んでいきたい」(読売20031216

 (7)は、7つの市町村で合併を検討していたところ、斐川町という町が合併計画からの離脱を表明し、そのことに対して斐川町に隣接する市の市長がコメントを述べたものである。この例では、「迷った」のは「自分の市が市町村合併に参加するかどうか」であり、これが「感情の対象」である。「斐川の離脱」は、「迷う」の「原因」ではあるが、「感情の対象」ではない。このように、「感情の対象」と「原因」がそれぞれ存在する場合、「原因」を「二」でマークすることはできない。

  ここでは最初に「文意が変わってしまう」のを根拠に<「原因」を「二」でマークすることはできない>とされます。しかし、文意を問題にするのであれば「二」は単に対象の認識を表すものであり、「デ」は理由・誘因の認識を表すものですから、最初から「言いかえ」などありえないことになります。「斐川の離脱迷った」は、「離脱」を「悩み」の原因として認識し表現しています。論者は「斐川の離脱で、自分の市が市町村合併に参加するかどうか迷った」と理解しているのですが、それは論者の認識で、市長がそう表現しているわけではありません。事実をそのように認識し表現することも出来るということです。

 事実は、7つの市町村で合併を検討していたところ、斐川町という町が合併計画からの離脱を表明したため、斐川町に隣接する市が、当初の計画通り合併を推進すべきかが問題となり、検討したが、やはり予定通り市民一丸となって改めて推進に取り組んでいくことになったということです。

最初に<基本的に「二」を使うことができない場合はないと言える>と記された通り、<「斐川の離脱に迷った」>と表現することもできます。これは、「非文」でも「不自然」でもありません。この場合は、市長が単純に「斐川の離脱」を「悩む」という「感情の対象」として捉え表現しています。また「斐川の離脱(の為迷った」の省略形とも捉えられます。そして、次のように続けて表現できます。

 斐川の離脱迷った。合併の答えが出るには二十年はかかる。二市五町で期待していたものをどれだけ二市四町で出来るかだ。市民一丸となって改めて取り組んでいきたい」

 原因である対象を単に対象と捉え表現することは認識の相違であり、それに対応した表現が可能です。市長は、「斐川の離脱」悩み、「自分の市が市町村合併に参加するかどうか」の判断を迫られ、「合併に参加する」ことを決めたと言えます。ある見方からは原因であるものも、見方を変えれば結果でもあり、それぞれの事実は認識の対象でもあります。

このように、<「斐川の離脱」は、「迷う」の「原因」ではあるが、「感情の対象」ではない。>というのは、論者の認識を絶対化した誤りであり、

 このように、「感情の対象」と「原因」がそれぞれ存在する場合、「原因」を「二」でマークすることはできない。

 というのは、対象→認識→表現の過程的構造と、その相対的独立を理解できないための誤りというしかありません。■

  
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2015年10月18日

形式主義言語論の「壁塗り交替」という現象論 (4)

    感情動詞の補語についての一考察 ―「ニ」と「デ」について」(2)

 前回は少し結論を急ぎすぎましたので、もう少し最初から論理展開を追ってみましょう。

 まず、題名ですが、「感情動詞の補語」についての「一考察」となっています。「補語」とは何かですが、デジタル大辞泉の解説をみてみましょう。

 1 《complement》英語・フランス語などの文法で、それだけでは完全な意味を表さない動詞の意をおぎなう  語。“He is rich.” “I make him happy.”のrich, happyの類。

2 日本語で、連用修飾語のうち、主として格助詞「に」「と」などを伴う語。「兄が弟に本を与える」の「弟に」の類。「を」を伴うものを目的語または客語というのに対する。

このように、本来は英語文法等の概念で、これを日本語にも適用したものです。そして、<主として格助詞「に」「と」などを伴う語>で格助詞「に」「で」そのものではありません。格助詞「に」と「で」の考察ではなく、感情動詞の<意味を補う語>の考察ということで、ここに、現象的・形式的な見方が示されています。

 そして、<問題の所在>では、<感情動詞には、「子を愛する」のようにヲ格をとるものと、「金に困る」のように二格をとるものがあり>と、先の「補語」の定義では<「を」を伴うものを目的語または客語というのに対する>「に」「と」なのですが、現象論的に「ヲ格をとるもの」「ニ格をとるもの」と質的な相違を無視して並置されます。さらに、 

  後者については、「ニ」と「デ」の言いかえが可能な場合があることが指摘されている。

 と、目的語との関連を無視したまま<「ニ」と「デ」の言いかえ>の問題に進みます。「ニ」と「デ」を伴う連用修飾語は補語ですが、「を」は目的語として通常は区別されるのですが、ここは無視されます。生成文法にはまともな品詞論がないのです。そして

     a 人手不足に悩む      b 人手不足で悩む  (作例)

   a 地震に驚く        b 地震で驚く    (作例)  

と「言いかえ」の例が示されます。これを、「言いかえ」とする根拠は「」を機械的に「で」に置き替えても違和感がない、「意味が通る」ので生成文法でいう「非文」ではないという判断です。しかし、「人手不足に悩む」は悩む対象を単にスタッティックに捉え表現しているにすぎず、「人手不足で悩む」は悩みの要因・原因を表現しているのであり、単なる「言いかえ」ではなく、話者の認識の表現、すなわち意味が異なる文です。論者はその点を問題として捉えることなく、「言いかえ」の例としています。さらに、その根拠を、

  「二」と「デ」を言いかえることができる場合があるのは、述語が感情動詞の場合、「ニ」が「感情の動きの誘因」を表す(寺村1982139)とされ、「デ」が多くの用法のひとつとして、「原因」を表すことがあるためと考えられる。

 とします。まず、寺村秀夫(1982)『日本語のシンタクスと意味1』での、<述語が感情動詞の場合、「ニ」が「感情の動きの誘因」を表す>という指摘を肯定しています。これが妥当か否かをまず検討する必要があります。デジタル大辞泉の解説を見ましょう。

 に】

  [格助]名詞、名詞に準じる語、動詞の連用形・連体形などに付く。

1 動作・作用の行われる時・場所を表す。「三時―間に合わせる」「紙上―発表する」

2 人・事物の存在や出現する場所を表す。「庭―池がある」「右―見えるのが国会議事堂です」

3 動作・作用の帰着点・方向を表す。「家―着く」「東―向かう」

4 動作・作用・変化の結果を表す。「危篤―陥る」「水泡―帰する」

5 動作・作用の目的を表す。「見舞い―行く」「迎え―行く」

6 動作・作用の行われる対象・相手を表す。「人―よくかみつく犬」「友人―伝える」

7 動作・作用の原因・理由・きっかけとなるものを示す。…のために。…によって。「あまりのうれしさ―泣き出す」「退職金をもとで―商売を始める」

8 動作・作用の行われ方、その状態のあり方を表す。「直角―交わる」「会わず―帰る」

9 資格を表す。…として。「委員―君を推す」

10 受け身・使役の相手・対象を表す。「犬―かまれた」「巣箱を子供たち―作らせる」

11 比較・割合の基準や、比較の対象を表す。「君―似ている」「一日―三回服用する」

12 (場所を示す用法から転じて、多く「には」の形で)敬意の対象を表す。「博士―は古稀(こき)の祝いを迎えられた」「先生―はいかがお過ごしですか」

13 (動詞・形容詞を重ねて)強意を表す。「騒ぎ―騒ぐ」

14 「思う」「聞く」「見る」「知る」などの動詞に付いて状態・内容を表す。

15 比喩(ひゆ)の意を表す。

この、7.の「動作・作用の原因・理由・きっかけとなるものを示す。」が該当するわけですが、この説明も語の意義と文の意味を混同している所があると言わなければなりません。この説明に続けて「…のために」、「…によって」と記されているように「原因・理由」の認識はそれに続く語が担っているのであり、「に」は単にスタッティックな事物のありかたの方向、対象との結び付きを意識しているだけで、「原因・理由」を意識しているのではないのです。12.や3.が時や場所や「動作・作用の帰着点・方向を表す」と記し、6.で「動作・作用の行われる対象・相手を表す」と記すように、格助詞「に」そのものはスタッティックな対象との結び付きの認識でしかありません。文脈での意味を「語」の意義に持ち込んでしまう解釈が上記の記述に表れています。

これは、現在の言語学、国語学が語の意味と言うときに、語の規範である意義と、文脈上での意味の二つが関連はあるが異なることが理解されていないことによります。

「に」対し、「子を愛する」の格助詞「を」はダイナミックな認識を表します。そして、格助詞「で」こそが、「原因・理由」を意識し表現しているのです。この事実を踏まえて、続けて検討していきましょう。■

  
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2015年10月15日

形式主義言語論の「壁塗り交替」という現象論 (3)

     「 感情動詞の補語についての一考察 ―「ニ」と「デ」について」(1)

  作用を表す動詞に関する「壁塗り交替」という現象論を見ましたが、感情動詞の補語、あるいはニ格~デ格の格交替の問題を考察している国語学、日本語学の論考があります。本質的には同じ問題ですが、これらの論を見てみましょう。

①「 感情動詞の補語についての一考察―「ニ」と「デ」について」村上佳恵(2010

②「ニ格とデ格の交替について」張 麗(2013

③「感情動詞におけるニ格とデ格の交替について」張 麗(2014

まず、①について、詳しく検討してみましょう。次のように問題が提起されます。

 1 問題の所在

 感情動詞には、「子を愛する」のようにヲ格をとるものと、「金に困る」のようにニ格をとるものがあり、後者については、「ニ」と「デ」の言いかえが可能な場合があることが指摘されている。

 (1a 人手不足に悩む      b 人手不足で悩む   (作例)

 (2a 地震に驚く        b 地震で驚く      (作例)

「ニ」と「デ」を言いかえることができる場合があるのは、述語が感情動詞の場合、「ニ」が「感情の動きの誘因」を表す(寺村1982139)とされ、「デ」が多くの用法のひとつとして、「原因」を表すことがあるためと考えられる。しかし、次のように、「デ」に言いかえることができない「ニ」があることも事実である。

 (3a 彼女の優しさに驚いた   b ?彼女の優しさで驚いた。  (作例)

本稿では、感情動詞の補語をマークする「ニ」が、どのような場合に「デ」に言いかえることができるのかを考察する。

  ここでも、<「二」が、どのような場合に「デ」に言いかえることができるのか>と「言い替え」の問題として捉えられています。この論考は、<感情動詞の補語をマークする「ニ」>と格助詞「ニ」が「補語のマーカー」とされるように生成文法に依拠しています。そして、<用例の「*」は、その文が非文であること、「?」は不自然であることを示す。>と、先に生成文法の主観的判定基準として指摘した「非文」が出て来ます。

まず問題になるのは、「言い替え」とは何を言っているのかです。「問題の所在」で、「言いかえることができる」のは「ニ」が「感情の動きの誘因」を表し、「デ」が多くの用法のひとつとして、「原因」を表すことがあるためと考えられる>と記すように、用法が異なった表現ではあるが「非文」や「不自然」でなければ「言いかえ」が成立すると見なされていることです。表現としての言語として見れば、用法が異なるということは話者の認識が異なるのであり、当然のこととして、表現された文の意味は異なります。つまり、「言いかえ」ではありません。これを「言いかえ」と見なすには、その認識の対象である事実が同じと判断し、認識を無視する他ありません。そして、この、事実が同じか否かの判断は、その文が「非文」か「不自然」かという論者の主観的判断によるしかありません。ここに、これまで指摘してきた形式主義言語論であり、プラグマティックな発想に依拠する生成文法の本質が示されています。

実際に、22 「二」と「デ」について>の最後で、

 「二」をどのような場合に「デ」に言いかえることができるか、という問題は、「感情の対象」がどのような条件を満たせば「原因」と言えるのかという問題である。

 とされ、「感情の対象」である、事実あるいは想像の条件を検討することになります。しかし、対象と認識は相対的に独立しており、さらに認識と表現もまた相対的に独立しています。そして個別の対象は多様な、属性、構造、関係をもっています。このような方法での検討に意味があるとは思えません。生成文法に依拠する発想、論理がどのようなものであるか、以下少し詳しく見てみましょう。

 まず、2 先行研究と考察の対象  21 格助詞「デ」について>を見ましょう。最初に次のように記しています。

  格助詞の「デ」は、前にくる名詞句と、後ろにくる述語の意味によって、さまざまな用法があることが知られている。

  格助詞の用法、つまり機能が「前にくる名詞句と、後ろにくる述語の意味によって」決まるとされます。つまり、格助詞自身が意味をもっているのではなく、無限にある文の中で前後の関係から用法が決まると言っています。それは多分、人間がもっている普遍文法が決めるとでも考えるしかないのかもしれません。単語の意味、意義とは規範であり、助詞とは主体的表現の語であり、客観的な対象の持つつながりの認識の表現とみなす言語過程説の立場とは全く逆の発想といわねばなりません。言語とは、このような規範を媒介とした話者の認識の表現で、このような規範なしに表現も受け手の理解も成立しようがありません。

生成文法の発想は、現象、機能を本質と取り違えるところから始まっていると思われます。「2.」の纏めは、先の結論となります。 

「地震驚く」の「地震」は「感情の対象」と言えるであろう。そして「地震驚く」と言った場合は、「地震」は「驚く」の「原因」である。つまり「地震」は「驚く」の「感情の対象」であり、かつ原因」でもあるのである。「二」をどのような場合に「デ」に言いかえることができるか、という問題は、「感情の対象」がどのような条件を満たせば「原因」と言えるのかという問題である。■

  
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2015年10月14日

形式主義言語論の「壁塗り交替」という現象論 (2)

 先の論考①「壁塗り交替についての考察」で、 

   a.ジョンは、壁にペンキを塗った。(〜ニ〜ヲ)   b.ジョンは、壁をペンキで塗った。(〜ヲ〜デ) 

に対し、(a)は、「その結果としての壁の状態は言及していない。したがって、壁の一部にしかペンキが塗られていない状況を表現することが可能である。」や、(b)では、「壁全体がペンキで塗られたという解釈が強くなる。結果的に、一般的な状況のもとで、壁の一部にしかペンキが塗られていないという事象を表現することはできない。」というのは、「壁塗り交替」という現象を前提にしているための強引な推論に過ぎず、文とは対象の認識の表現であることを考えれば、形式的に格助詞を入れ替えた形は単に語の形式的な羅列に過ぎず、認識が対応していないので本来の文ではないことになります。それを、論者の経験の中にある形式と結びつけ、逆に対象を想像しているだけとなります。本来の文としての「ジョンは、壁にペンキを塗った」という表現は、この一文だけでは先に理解したように、「壁に塗った」という事実の認識の表現としか読みとれません。しかし、実際の会話や文章の文脈においては、前後の文脈で「壁」や「ペンキ」は「家の壁」「倉庫の壁」や「赤いペンキ」「白いペンキ」という具体的な意味が与えられ、その状況が知られて理解されます。それが、表現としての文章での具体的な意味となります。

 ④「壁塗り代換を起こす動詞と起こさない動詞:交替の可否を決定する意味階層の存在」では、

 一方,次の「付ける」や「汚す」等のように,こうした交替を起こさない動詞もある。

 3a.壁にペンキを付ける      b*壁をペンキで付ける

 (4a.*壁にペンキを汚す      b.壁をペンキで汚す

 と形式的な格助詞の交替により、意味を成さない例が検討されます。これまでの先行研究では、

 概ね、「塗る」等の動詞が交替を起こすのは位置変化と状態変化の両方を表すからであると論じられてきた。たとえば奥津(1981:左32)は.「(川野注:「塗る」等の交替動詞は)移動動詞の格の枠と,変化動詞の格の枠とをあわせた二重の格の枠をもつ動詞であり,そのどちらの枠を選ぶかによって,表層の格のちがい.つまり代換が壁塗り代換を起こす動詞と起こさない動詞説明できる」と述べている

 と先行研究が紹介されていますが、実際には論者が、その文形式に対応する意味が現実と対応する例を見つけられないため非文と判断しているに過ぎません。本来は現実の現象に対応した認識、またはそれに即した再構成の空想が認識され表現されるわけですが、そのような例は存在しないため形式的な文も非文と判断されることになります。

このように、「壁塗り交替」という現象的な捉え方自体が誤りであることが判明すれば、全く無意味な論を展開していることが判ります。

②「いわゆる「壁塗り交替」について―構文は交替しない.単に(意味の相互調節に基づいて)選択されるだけである―」では、「彼はその仮説の立証のために,わざわざ三本の論文を費やした」に対し、

 (5) X∗, Y, V2 = 費やす (非交替)

 a. P1: *彼は [X∗ の仮説の実証] [Y三本の論文]で費やした b. P2: 彼は [X∗その仮説の実証][Y三本の論文]を費やした

  (6) X∗, Y, V1 = する (おしくも非交替)

  a.?彼は [X∗ その仮説の実証] [Y 三本の論文]でした b. *彼は [X∗ その仮説の実証] [Y三本の論文]をした

 に対し、

  問題 1: (6a, b) のような,交替しそうでしない例で[V2: “する”⇒ V2 = 費やす”]のように語彙を変化させて「意味が通る」ようにできるのは,いったいなぜなのか? (しかも,(5) から明らかであるように,V2 =“費やす” が交替を許す動詞だというわけでもない)

 と、非交替の動詞が場合によっては交替を許すのは何故かを問題にしています。そして、「派生が構文間の競合の副産物だと言う主張」を導きだし、「それなりの説明モデル」を提起しています。これも、単に形式的な語の交替による文形式を作り、後から、現実に対応する認識があり得るのかを検証しているもので、論理的に逆転していることが理解出来ていません。

 この論文を書かれた黒田航氏は、「純粋内観批判―生成言語学の対抗馬であるだけでは認知言語学は言語の経験科学にならない(2005)という論稿で、認知言語学の現状に対し、

  あまりに多くの認知言語学者が認知言語学も客観主義と融和する必要性を理解していない.彼らの多くは客観主義や実証性を敵対視する「腐れ人文主義」に染まっている。彼らはそのくせ、自分たちのやっていることが言語の「科学」であると言う.正直なところ,これが仮にも「研究者」と呼ばれる人々の発言だとは私には信じられない.それは私が研究者だと思っている人たちの特性とはあまりに違う。

 と鋭い科学性に対する批判を展開されていますが、「科学」を単に経験科学とし、自然科学の一類と捉えている限り「言語の科学」の展開を望むことはできません。■

  
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2015年10月13日

形式主義言語学の 「壁塗り交替」 という現象論 (1)

生成文法の形式主義、言語実体観の誤りについて見て来ましたが、これらの影響下にある現代言語学の現象論の事例として「壁塗り交替」について考えてみます。Net上で次の論考を見ることができます。

①「壁塗り交替についての考察」佐藤章子(2002)

②「いわゆる「壁塗り交替」について―構文は交替しない.単に(意味の相互調節に基づいて)選択されるだけである―」黒田航(2005

③「構文文法に基づく日本語他動詞文の分析―壁塗り交替を事例に―」永田,由香(2005

④「壁塗り代換を起こす動詞と起こさない動詞:交替の可否を決定する意味階層の存在」川野靖子(2009

⑤「現代日本語の動詞「詰める」「覆う」の分析―格体制の交替の観点から―」川野靖子(2012 

「壁塗り交替」と呼ばれているのは、 

   a. ジョンは、壁ペンキ塗った。(〜ニ〜ヲ)  b. ジョンは、壁ペンキ塗った。(〜ヲ〜デ)

という様に、同じ「壁塗り」という現象が「~に~を」という文と、「~を~で」という二つの構文で表現されるのを捉え名付けられたものです。「塗る(った)」という動詞の形態が変わらない二つの構文を「壁塗り交替」と呼んでいます。これは英語でも同じで、①では、

   a. John sprayed paint on the wall.     b.  John sprayed the wall with paint.

の例を取り上げています。そしてこの二つの文が同じ意味なのか、相違するとすれば、何が異なるのか、その理由は、さらに「壁塗り交替」の出来ない動詞との相違の究明がテーマとなっています。①では、認知言語学の立場から、次のような解釈が提示されています。(以下、色付け、強調は評者。)

(a)では動詞から近い位置にあるのは移動物であるペンキ(paint)なので、動詞の影響を大きく受けているのはペンキである。ペンキに対する動詞の影響といえば普通は、「ペンキの壁への移動」だと考えられるため“移動”を叙述した文だと言える。また、pour型の構文を使っていることから、動詞の意味構造の<変化(移動)>の部分に焦点があてられているので、その結果としての壁の状態は言及していない。したがって、壁の一部にしかペンキが塗られていない状況を表現することが可能である。これに対し(b)では、動詞の影響を大きく受けるのは場所名詞である壁(thewall)である。壁に対する動詞の影響が大きいということは一般的に、「壁がペンキで塗り尽くされた」という事態が考えられるので“結果状態”を叙述した文ということになる。fill型の構文であるため、意味構造の<結果状態>の部分に焦点をあてて表現しているので、壁全体がペンキで塗られたという解釈が強くなる。結果的に、一般的な状況のもとで、壁の一部にしかペンキが塗られていないという事象を表現することはできない

表現形式が異なるだけで論理的な意味は等しいとされてきた2つの構文だが、ある状況を表現するのにどの部分に焦点をあてるかが異なっているということがわかった。形式の違いが意味に反映されるということは、どの形式を選択して表現するかによって、話者の認知の仕方が示されているといえるだろ。

ここでは、「動詞の意味構造」なるものが問題とされ、「ペンキに対する動詞の影響」を「大きく受ける」部分への話者の認知の仕方が問題とされています。すなわち、「動詞から近い位置にあるのは移動物であるペンキ(paint)」なので」、「動詞の影響を大きく受けているのはペンキ」であり、「動詞の影響を大きく受けるのは場所名詞である壁(the wall)である」と<動詞>の意味によらず、<動詞>自体が何かに影響を与えるという言語実体観による形式的な解釈が示されています。

言語過程説では、言語とは対象―認識―表現の過程的構造に支えられた表現ですから、この文に表現されている話者の認識が明らかにされなければなりません。これを「ジョンは、壁にペンキを塗った」について、丁寧に辿ってみましょう。

「ジョンは」と始まっていますから、他のビルやスミスではなく、ジョンという人の特殊性の認識を表しています。そのジョンが「壁に」ですから格助詞「に」は、<帰着点や動作の及ぶ方向を表す>ので、ここでは、<目標・対象などを指定する>ことになり、「壁」という動作対象の目標認識を示しています。次に、「ペンキを」で、格助詞「を」が<動作・作用の対象を表>しますから「ペンキ」が動作対象であることを認識しています。そして、「塗る」という動詞が<物の表面に液や塗料,また,ジャム・バターなどをなすりつける>動作の認識を示し、助動詞「た」が、これまでの内容が今現在ではなく、過去の事実であった認識を示しています。このように見てくれば、この文の意味は明瞭となります。意味とは、話者の認識と表現された形である文との関係ですから、この文が話者の認識と結びついているのが判ります。「ジョンは、壁をペンキで塗った」もまた、同様に意味をもち、対象が「壁」であり、材料、手段が「ペンキ」であることが示されています。つまり、この2つの文は、対象の認識が異なるのであり、格助詞「に」「を」「で」はそれぞれの話者の認識を表現しているのであり、交替をしているのでも何でもなく、話者の認識の相違に対応しています。

このように、対象―認識―表現という過程的構造を捉えられない、言語実体観という形式主義的な見方では単に表現された文や語という形自体か、認識抜きの対象と形との関係にすべての要因、原因を求めざるを得ないことになります。そして、単に文の形の比較から格助詞の交替という現象に意味があるという誤った判断に導かれます。

認知に注目した認知言語学も又、上に見るように「動詞に近い位置にある」「移動物」「場所名詞」などという、話者の認識を示す語の本質とは無関係な語順や名詞の属性という形式を問題にするしかないというのが実情です。

「壁塗り交替」などという形式的な現象を捉えるしかないところに現在の言語学の限界が露呈しています。さらに、もう少し内容を検討してみましょう。■

  
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2015年10月11日

「天の原ふりさけ見れば…」― 万葉学の現在 再考(2)

 万葉集の巻二・一四七番歌、

天の原 振り放け見れば 大君の 御壽は長く 天足らしたり

を阿倍仲麻呂は知っていた、という所まで論及しましたが、この後次のように論じられています。第五項全部を引用します。

 阿倍仲麻呂は、この歌を知っていた。わたしはそう思う。なぜなら、この先行歌を知らずに、偶然同じ場所(「天の原」)で、同じ上の句を使って、その歌を作った。そんな偶然など、あるものではない。だから、当然、知っていて作った。そう考えるほかはない。おそらく「本当の作歌者名(Y)」も、知っていたことであろう。
 このように考えてみると、仲麻呂の歌は、かつてとは、全く異なった「光」を帯びて輝くことに気づかざるをえないであろう。
 彼のおかれていた状況を摘記してみよう。
 第一、(従来の理解とは異なり)九州近辺の出身だった。宝満山(三笠山)の西麓、大宰府近傍の地に久しく住んでいたように見える。
 第二、彼の生きた八世紀前半、すでに「倭国」(九州王朝)は滅亡していた。代わって近畿天皇家による「日本国」の時代となっていた。
 第三、彼は若くして俊秀、ために霊亀二年(七一六)遣唐使の一員に加えられたという。もちろん、「日本国」の一人としてである。
 第四、彼は、故郷の九州の博多湾岸を出航し、壱岐の北端部「天の原」に至った。ここを過ぎれば、もはや九州を見ることはない。「日本を去る歌」を作ったのである。
 第五、彼は、この地で、かつて先人が作った歌を知っていた。その先人は、今は滅亡した「倭国」(九州王朝)の将兵として、白村江の戦へと出発していった。その時「倭国の永遠」のみを信じていたのである。
 しかし今(八世紀中葉)、その「倭国」は滅亡し、近畿中心の「日本国」にとって代わられた。
 人々は、昨日の「倭国への忠誠」を忘れたように、新しい「日本国」の近畿に向って「忠誠の心」を転じていた。
 その中における「日本国の遣唐使の一員」に、彼は加えられたのである。
 以上のような「状況」において、彼の歌を再読してみよう。そこには次のような含意が感ぜられないであろうか。
 <その一>かつて白村江の戦へと出で立っていた人々、その将兵の上にも、あの「三笠山に出でし月」はその光を照らしていた。
 <その二>はるか古え“天国より降臨した”として侵入し、支配した「倭国の始祖」ニニギノミコトがこの博多湾を“満面の勝利感”を以て闊歩していた時、あの「三笠の山に出でし月」はその姿を照らしていたことであろう。
 <その三>その後、「倭国」は白村江に敗れ、三〇年数年後、滅亡した。人々は筑紫への忠誠を止め、ひたすら心を大和へと向けはじめた。その人々の姿をもまた、「三笠の山に出でし月」は変わらず照らしていた。
 <その四>そして今、奇しき運命を以て、「日本国から大唐へ」の遣支団の一員となって、日本を去ろうとしている自分、その面前に月が照っている。これもあの「三笠の山に出でし月」の変らぬ光なのであろう。
 以上、仲麻呂は“変わりゆく世の相(すがた)”に対し、不変なるもののシンボルとして、「三笠の山に出でし月」を見つめていたのではあるまいか。

 通説の大和の三笠山では、とてもこのような深い、古田氏の敗戦体験にも支えられた、心の琴線に触れる理解は望むべくもありません。■  
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2015年10月09日

「天の原ふりさけ見れば…」― 万葉学の現在  再考(1)

 先に、古今集の阿倍仲麻呂の歌、

  天の原ふりさけみれば春日なる三笠の山に出でし月かも

について、壱岐の天の原から博多湾岸の宝満山に昇る月を見ての歌との論証を記しました。この「天の原ふりさけみれば」の句には万葉集に先例があることを古田武彦氏が『古代史の十字路 万葉批判』で論じていますので、これを辿ってみましょう。万葉集の巻二・一四七番の、

  近江大津宮に天の下知らしめしし天皇の 天命開別天皇、謚して天智天皇という
    天皇聖躬不豫之時太后奉御歌一首
                        みいのち
  天の原 振り放け見れば 大君の 御壽は長く 天足らしたり
                 
です。通説では、「大空を振り仰いで見れば、大君の御命は長久に空に満ち足りるほどである」といったものですが、(天智)天皇が病に斃れ、床に伏しているのに作歌者(倭大后)が「天の原ふりさけみれば」というのは大仰な芝居がかった感じで歌と前書きとのアンマッチが見て取れるということです。

 やはり、「これは当然、博多湾沿岸から北上して朝鮮半島側へ向かう際、壱岐の北端部「天の原」近辺における作歌と見なす」しかありません。この歌は前書きの時代性から7世紀後半で、8世紀になって「大空を振り仰いで見れば」という句を仲麻呂が「天の原(地名)」の意味で再利用というのは考えられません。

 この歌の真の作歌者は、なぜこのルートを北上しているのか。この時代を画す出来事とは、「白村江の戦」です。その戦のために北上する、その途次の歌となります。ここを過ぎれば、ふたたび祖国を見ることはないであろうとの思いが詠われています。その博多湾沿岸には内湾である今津湾に「長垂(ながたれ)山」があるのです。室見川の左岸(今宿の東)に当ります。ここはペグマタイトという雲母を含む鉱石の産地で現在天然記念物に指定されています。その室見川上流には、最古の「三種の神器」をもつ弥生王墓、吉武高木があります。九州王朝の「神聖なる原点」たる陵墓です。彼は、その方向を望み見ています。
 つまり、この歌の下句、「御壽は長く天足らしたり」には、この「長垂山」という地名が詠み込まれていたのです。通説の解釈では、この緊密な内的意味の繋がりを捉えられない散漫な解釈となってしまいます。古田氏は次のように記します。

 彼が博多湾岸を出発して“死を覚悟した”戦に出でゆくとき、この「吉武高木」の陵墓へ参拝し、そのあと、博多湾沿岸の「長垂山」近傍(室見川河口)から「船出」してここ「天の原」に至ったのではあるまいか。
 「天足らしたり」
の「天」が、九州王朝の天子の「自称」であったこと、言うまでもない。隋書俀国伝において
「姓は阿海(あま)、字は多利思北孤、阿輩雞弥と号す。」
とあったこと著名である。
 ここで彼(Y)が歌っているのは、
「倭国(九州王朝)の歴代の王者(ニニギノミコト以降)は、死して今も、永遠のいのちを保っておられる。」
という内容なのである。……
 すでに「己がいのち」に先はない。そう思いかためていたことであろう。わたしの青年時代の友たちと同じだ。
 そのような中での「作歌」だったのである。
 「天の原で、はるばるとふり仰いでみると、長垂山の向うに鎮まります、死せる王者たちの御いのちは永遠である。」
 自分はやがて死ぬことであろう。しかし、倭国(九州王朝)の歴史は永遠である。そのように信じようとしているのだ。その気持ちは、あのような時代(戦前)の一刻をもったわたしには痛いように判るのである。(『古代史の十字路 万葉批判』第十章 《特論三》「倭国別離」の歌)

と痛切な氏の共感が述べられています。阿倍仲麻呂は、この歌を当然知っていたことになります。そこからは、仲麻呂の歌がこれまでとは全く異なった「光」を放つことになります。古田氏の解読を次に記します。■
  
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2015年10月05日

チョムスキー『統辞構造論』の論理的誤り (5)

  時代背景 ― 情報理論と人間機械論(2)
『統辞構造論 付『言語理論の論理構造』序論』チョムスキー著 (岩波文庫:2014.1.16)

 当時、情報科学と呼ばれたのは通信理論と共にノーバート・ウィーナーによって提唱された『サイバネティックス: 動物と機械における制御と通信』の発想と結びついていました。情報のフィードバック(帰還)による制御により単なるやりっぱなしではなく、結果をフィードバックし調和を実現する制御システムを目指したのです。その結果、JR始め、各種の券売システム、運行制御システムや銀行の営業店システム、ATMなどの現在の制御システムや、ディジタルTV、スマートフォンが生みだされることとなりました。
 このシステム理論により人間もまた、五感によりデータを入力し、脳による演算・制御を行い、その結果による行動を行い、感覚器官によるフィードバックを伴うシステムとみなされました。ある種の人間機械論ともいうべきものです。そして言語もまた、このような機械の産物とみなされました。これらは単に機能としての比較に過ぎず、人間と機械の本質的な違いは無視されていることが分ります。機械は、まず動力源、エネルギー源としての電力を外部から供給されねばなりません。そのエネルギーにより、電子などの運動を利用してデータの演算や、磁気を利用しモーターを動作させたりして与えられた手順に従って、情報や物を処理するに過ぎません。処理の手続きや異常時の処理方法は予め定められた手順により処理するだけです。
 しかし、人間は自分で食事によりエネルギーを補充し、生命を維持し、意志を持ち、認識、判断する自律した存在です。そして、互いに協働し意志の疎通を図り、社会生活を営んでいます。このために、お互いの認識を表現し交換しなければなりません。この人間の概念的認識の表現こそが言語であり、そのために共通の規範を生みだし運用しています。人間機械論は、この人間の本質を無視し単に機能を比較し論じているに過ぎません。先にも見た通り、

 各々が有限の長さを持ち、また、要素の有限の集まりから構成される文の(有限あるいは無限の)集合として言語(Language)を考えていく。全ての自然言語は、書かれたものであろうが話されたものであろうが、この意味における言語である。なぜなら、個々の自然言語には、有限の数の音素(あるいは、アルファベットの文字)があり、文の数は無限ではあるが、各々の文はこれらの音素(あるいは、文字)の有限列として表示されるからである。

という言語本質観は、正に人間機械が出力した文字の集合として文を捉えるもので、認識されたものの表現としての文ではありません。「左から右へと文を生み出していく有限マルコフ過程に基づいて文法性を分析しようとするアプローチは、第二章で退けた諸提案とまったく同様に、必ず行き詰まってしまうように思える」ため「句構造による記述」に進み、さらに、

 変換分析を正確に定式化すれば、それが句構造を用いた記述よりも本質的にもっと強力であるということが判る。これは、句構造による記述が、文を左から右へと生成する有限マルコフ過程による記述よりも本質的に強力であることと同様である。

と、その人間機械論という言語本質観の根本にある誤りに立ち戻ることなく単なる方法論のレベルでの修正を次々と重ねるだけでは言語の本質はもとより、文、文法も言語習得の本質も明らかにすることはできません。「第九章 統辞論と意味論」では9.2.1で、

 「意味に訴えることなしに、一体どのようにして文法を構築することが出来るのか」という問いに答えようとするために多大な努力が払われてきた。しかしながら、この問い自体が誤って立てられているのである。なぜなら、この問いの背後にある、意味に訴えれば文法が構築できるのは明らかだという暗黙の想定には全く根拠がないからである。

と人間機械論的発想で意味論を排除しているが、事実は先にも指摘したように「非文」という論者や、読者の主観に依拠して意味を密輸入し、文、文法の適否を判断するというプラグマテイックな手法で表面的に意味を排除しているに過ぎません。言語の本質に基づき意味とは何かを明らかにすることなしに、意味と文の関係を論ずることはできません。
 このように見てくれば、生成文法なるものの根底が時代思潮でもある人間機械論という当時の情報理論に依拠した形式的、機能主義的な言語論に過ぎないことが明確になります。このあとの、「デカルト派言語論」なる宣言もまた、この発想の延長線上でしかないことは「プラトン的イデア論への転落」として既に批判されているところです。■
  
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2015年10月02日

チョムスキー『統辞構造論』の論理的誤り (4)

  時代背景 ― 情報理論と人間機械論(1)
『統辞構造論 付『言語理論の論理構造』序論』チョムスキー著 (岩波文庫:2014.1.16)

 チョムスキーは対談集『生成文法の企て』(福井 直樹 , 辻子 美保子 訳:2003.11.26)の「第一章 言語と認知」で次の様に述べている。

  一九五〇年代には、多くの人々が有限オートマトンに興味を示していました。なぜならば、その当時の技術の進歩に大きな信頼が寄せられていましたし、有限オートマトンの理論が理解され始めていた頃でもあったからです。情報理論との関連も明らかに存在しました。一九五〇年代初頭の、シャノンとウイーヴァーの共著『コミュニケーションの数学的理論』やジョージ・ミラーの著書『言語とコミュニケーション』に遡ってみると、研究上のブレークスルーが見つかったような感覚が確かにありましたね。情報理論、有限オートマトン、マルコフ型情報源、音声スペクトログラム等の専門技術が出そろった頃でした。自然科学が人間の心や人間の認知に関わる現象を含むまでに拡大しつつある、正にその瀬戸際に立っている、と皆思っていたのです。大変な興奮でした。ひどく単純な考え方ではありましたが。たぶんやってみる価値はあったんでしょう。私は当時学生だったんですが、そううまく行くはずはないと確信していましたし、事実こういった試みはすぐにつぶれてしまいました。今では誰も有限オートマトンで人間の認知能力の諸特性を表せるとは考えていないと思います。

  一九四八年にはMIT(マサチューセッツ工科大学)のノーバート・ウィーナー『サイバネティックス: 動物と機械における制御と通信』、ベル研究所在勤のクロード・シャノンによる論文「通信の数学的理論」が出され、ベル研究所でトランジスタが発明された、コンピュータ技術、通信技術と制御技術の揺籃期でした。この発明・発見の成果が今日の情報通信革命、ICT革命の源となっています。
 『通信の数学的理論』(クロード・E. シャノン/ワレン ウィーバー 著, 植松 友彦 翻訳:ちくま学芸文庫2009/8/10)の「通信の数学的理論への最近の貢献」では、情報についてつぎのように記しています。

 通信理論においては、情報という言葉は特別の意味で用いられており、それを日常的な用法と混同してはならない。特に情報を意味と混同してはならない。
 事実、あるメッセージは意味的に重要で、別のメッセージは全く無意味であったとしても、情報に対する今の視点からすれば、これらの2つのメッセージはまったく等価であるということがありうる。「通信の意味的側面は工学的側面とは関連がない」とシャノンが述べるとき、彼の言わんとするところは、まさにこのことだったに違いない。しかしながらこれは、技術的側面が意味的側面と関連がないということを必ずしも意味するわけではない。
確かに通信理論においては、情報という言葉は、実際に何を言うのかということよりも、何を言うことができるかということに関系している。すなわち、情報とはメッセージを選択するときの、選択の自由度のことなのである。(ゴシックの強調は原文のまま)

 そして、「Ⅰ 離散的無雑音システム」では、

 離散的情報源では、メッセージを記号毎に生成するものとして考えることができる。一般に情報源は問題となっている特定の記号のみならず、前に行った選択にも依存する確率に従って、後に続く記号を選択する、ある確立に支配されて、そのような記号の系列を生みだす物理的なシステムか、あるいはシステムの数学的モデルは、確率過程として知られている。したがって、離散的情報源は確率過程によって表現されると考えても良い。逆に、有限の集合から選ばれた信号の離散系列を生みだすいかなる確率過程も又離散的情報源とみなして良い。これは次のような場合を含んでいる。

として、「1.英語、ドイツ語、中国語などの自然言語の書き言葉」を挙げています。チョムスキーは『統辞構造論』で、この数学的には離散的マルコフ過程と呼ばれる確率過程を取り上げ、「要するに、ここで示したような、左から右へと文を生みだしていく有限マルコフ過程にもとづいて文法性を分析しようとするアプローチは、第2章で退けた諸提案と全く同様に、行き詰ってしまうように思える。」と記し、

 しかし英語のような非有限状態言語を生成するには、根本的に異なる方法と「言語学的レベル」についてのさらに一般的な概念が必要なのである。

と「句構造」の検討に進みます。このようにチョムスキーは「そううまく行くはずはないと確信して」いたにもかかわらず、実際は正しく当時の情報理論の渦中からその文法理論の構築を始めています。■
  
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2015年10月01日

上野誠 著『遣唐使 阿倍仲麻呂の夢』に見る粗雑な鑑賞 (4)

 これまで、主に王維の詩「送鼂監歸日本」の九州の理解に関する粗雑を取り上げてきましたが、この本ではその根源にある日本国の理解にこそもっとも粗雑な解釈が見られます。もっとも、これは著者である上野氏個人の問題というより、戦後古代史学、国語学そのものの体質、戦後レジュームと呼ぶべきものですが、この点に触れてみましょう。

 「第二章 日本から唐へ」で「日本の遣唐使は大言壮語して真実を語らない」という節で『旧唐書』『新唐書』の疑惑について論じています。『旧唐書』の東夷伝は高麗・百済国・新羅国・倭国・日本の5国で構成されています。つまり、倭国と日本国は別国となっています。本書では、<「日本」という国号が、法の中に位置づけられたのは、大宝律令が最初であることはすでに述べた。>として、倭国から日本国への変更を単なる律令制定による国号の変更と見做しています。しかし、唐はそれに疑問を持ち、遣唐使に問い質しているのですが著者はこれを「日本側の虚勢」の問題に矮小化し、「自負と虚勢は、コインの表裏の関係にあると思う」と片づけています。『旧唐書』「日本伝」の記述を見てみましょう。

  日本國者倭國之別種也 以其國在日 故以日本爲名

 或曰 倭國自惡其名不雅 改爲日本

 或云 日本舊小國 併倭國之地

 其人入朝者 多自矜大 不以實對 故中國疑焉

 又云 其國界東西南北各數千里 西界南界咸至大海 東界北界有大山爲限 山外即毛人之國

   日本國は倭國の別種なり。其の國、以って日に在り。故に日本を以って名と爲す。

 或は曰う。倭國自ら其の名の雅ならざるを惡(にく)み、改めて日本と爲すと。

 或は云う。日本は舊(もと)小國にして倭國の地を併せたりと。

 其の人、入朝する者は多く自ら矜大(きょうだい)にして實を以って對(こた)えず。故に中國、焉れを疑う。

  このように、唐の史書に「多く自ら矜大(きょうだい)にして實を以って對(こた)えず」と記されているのですから、これを単なる「日本側の虚勢」で済ますのは粗雑な理解と言うしかありません。『新唐書』「日本伝」にも同様な記載があります。倭国は建武中元二(57)年に光武帝から金印をもらい、俾弥呼もまた金印をもらったように、中国とは古くから交流があり、7世紀には唐と白村江で戦い、敗れているのですから、互いの状況は良く分かっているはずです。そこへ、新興の日本国の遣使が訪い「實を以って對(こた)えず」というのですから、単に「日本側の虚勢」とするのは粗雑な理解というしかありません。「日本は舊(もと)小國にして倭國の地を併せたりと」というのですから、ここに王朝の交替があったと見ねばなりません。古田氏は『失われた九州王朝』(朝日新聞社、1973/角川文庫、1979/朝日文庫、1993/ミネルヴァ書房、2010)の「序章 連鎖の論理」で次のように記しています。

  以上によってみると、中国史書に一貫した中国側の視点からは「漢より唐のはじめまで」は一貫した王朝としての「倭国」だ。それ以後、新興の別王朝としての「日本国」となった、といっているのである。そして、中国側は、この新興「日本国」の使節と接触した最初の経験をつぎのように記している(先の「日本国」の項につづく)。「其の人、入朝する者、多く自ら衿大きょうだい、実を以て対こたえず。故に中国焉これを疑う」。ここで「実」といっているのは、古くから累積し、正史に記録されてきた中国側の認識のことである。しかるに新興の「日本」の使節の主張がそれとくいちがっている。そこで、中国側はこれに疑惑をいだいた、というのである。

   これこそが、真の日本の歴史と見ねばなりません。この日本国(近畿大和朝廷)以前の倭国を古田氏は「九州王朝」と名付けたわけです。そして、その九州王朝の天子の直轄領を中国の伝統に倣い九州と名付けたということになります。

上野氏の粗雑の論理の根源は、実にこの九州王朝という日本の真実の歴史の無視にあると言わねばなりません。■

  
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2015年09月30日

上野誠 著『遣唐使 阿倍仲麻呂の夢』に見る粗雑な鑑賞 (3)

 王維の本来の題が「送鼂監歸日本」であったものが「送祕書晁監還日本國」と「帰」が「還」に変えられています。

 これは、よく知られている通り別離の宴を催し「日本=ヒノモト」へ帰るべく出帆したのですが、途中台風に遭い船はヴェトナム方面に流され、結局唐へ戻る結果となってしまいます。そして、故国へ戻ることなく唐で没します。つまり、この事実を知った後で、往還の「還」の方がより適切との判断で直されたものといえます。これらの経緯を古田氏は次のように記しています。

  現在、この王維詩中の「九州」に対する“一般的理解”は、「九州=全世界(中国を含む全領域)」のようである。(中国を「赤県神州」と称し、その一とする。『史記』鄒衍伝)

 確かに、王維がこの「神仙的な超九州」概念を“意識”していたことは「万里空に乗ずるが若し」の表現からもうかがえよう。

 しかし原型たる極玄集のしめす「九州何処所」の表記は、やはり「具体的所在」としての「九州」であり、漠たる“不特定の拡がり全体”の称ではない。

 だからこそ後代(北宋・何宋代)の版家・校家はこの「所」の一字をきらい、「遠」や「去」へと“改ざん“すべき必要性があった。そのように率直に理解すべきではあるまいか。

 唐詩選のしめすところ、それは明らかに“改ざん”型であり、従来の注解・翻訳者のほとんどはこれに意を払わず、空しく「全世界」視してきたのである。

  この『遣唐使 阿倍仲麻呂の夢』の著者である上野誠氏も5年前の古田氏のこの指摘を無視し“改ざん“型を踏襲しているのです。その結果、仲麻呂を大和、奈良の出身とすることになり『古今和歌集』の、

  天の原 ふりさけ見れば かすがなる みかさの山に 出でし月かも

の歌の理解もまた誤る結果となってしまっています。

 著者は、「歌の聞き手と読み手には、今、作者がどこにいて、どこから、どこに出た月を見たかは、明示されていないのである。明示されているのは、昔、春日にある御蓋山の月を見たということだけである。」とし、これを推理するところにおもしろさがあるとします。さらに、左注にもとづき、

   仲麻呂が唐土の明州というところで、帰国送別宴の折に見た月。だから海辺の月ということになる。

  具体的に日時は確定できないが、留学の前に見た故郷の月、ということになる。

 と解釈します。しかし、この解釈では、「天の原」が単なる天の空となり、「ふりさけみれば」との繋がりも不明です。「かすが」「みかさ」との内的つながりも不明な散漫な歌となってしまいます。これでは、かつて古田氏が高校で教えた時、生徒から問い詰められた「春日っていうのは、中国でみんなが知っているそんなに有名な場所なんかい?」「なんでだ?」「なぜ、大和なる三笠の山と言わんのだい? 春日の方が有名なんかい?」という問いに答えることはできません。先にも記した通り、事実は古田氏が「『万葉集』は歴史をくつがえす」で述べた次の通りとなります。

  結論としてここ、奈良の歌ではない。だから阿倍仲麻呂が日本を離れて、壱岐の「天の原」で、月が上がるのを見て作ったとすると、よくわかる。ここで船は西むきに方向を変えるので、島影に入ると九州が見えなくなる。で、ふりかえって見ると、春日なる三笠の山がある。三笠の山は志賀島――金印で有名な――にもありますのでね、目の前に二つの三笠山がある。「筑紫なる」といったのではどちらの三笠山か分らぬ。宝満山なら「春日なる三笠の山」でよい。ですから全部の条件がピシャピシャと合ってきた。こうして解けてきた。そうすると、間違っていたのはまえがきの方だった。

 たしかに、仲麻呂は明州で、別れの宴で、この歌を歌ったと思いますよ。しかし、その場で作ったのか、前から作っておいたのを詠じたのかは別の問題。日本の使いが帰ってきて、この歌を伝えたのでしょう。しかし、そこ明州で作ったというのは編者の解釈、実は間違っていた。編者の頭には大和の三笠山しかなかった。のちの人は、まえがき、あとがきをもとにして解釈しようとしたから苦しんできた。歌は直接資料、まえがき、あとがきは編者の解釈で、間違っているかもしれない。この原則を確認したのが、この歌だった。

  このように判明すれば、唐に向かう船が壱岐の「天の原」(遺跡の近く)に近づき、大宰府方面を振り返り故郷の「春日なる三笠の山」に出た月を詠んだのであり、各語が緊密に結びついた名歌であることが明らかになります。■

  
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2015年09月28日

上野誠 著『遣唐使 阿倍仲麻呂の夢』に見る粗雑な鑑賞 (2)

極玄』の古田氏による読み下しを記します。

  積水不可極  積水きわむべからず。

  安知滄海東  いずくんぞ滄海の東を知らん

九州何處所  九州いずれの所ぞ

萬里若乘空  万里、空に乗ずるがごとし

向國唯看日  国に向かいて、ただ日を看

歸帆但信風  帰帆ただ風にまかす

鼇身映天黑  鰲身(ごうしん)、天に映じて黒く

魚眼射波紅  魚眼、波を射て紅なり

樹扶桑外  郷樹は扶桑の外

主人孤島中  主人は孤島の中

離方異域  別離、まさに異域

音信若為通  音信、いかんか通ぜん 

撰者は姚合(779855)で、古田氏が『極玄集』について、「一番古い詩集である。これは9世紀、阿倍仲麻呂や王維がなくなってから百年も経っていない時期に、姚合(ようごう)によって編集された詩集である。彼自身は詩人でもあり、『唐詩選』の中に、彼の詩も二・三詩はある。その詩人の姚合が、八世紀以前の、七世紀ぐらいからの唐の初期の詩人の詩を編集したのが『極玄集』である。非常に古い。」と言われている通りです。先の趙殿成版では、「九州何處所」が「九州何處遠」と「所」→「遠」と直されています。身近にある『唐詩選()』(前野直彬注解:岩波文庫 229P)でも「遠」とし、「九州」を「ここでは中国の外にあると考えられた九つの世界をさす。」と注がついています。

このような改変がいつ頃なされたかを古田氏は調査し、南宋末(十三世紀後半)の『須渓先生校本・唐王右丞集』まで遡りうることが分かっています。これは、南宋という朱子学の時代に中華原理主義の立場から判断し校本を定めたものと見られます。つまり、本来「所」であったものをイデオロギーの立場から「遠」に直されたもので、王維が詠んだ詩の原型は『極玄集』であり、これにより解釈しなければならないということになります。先にみたように、趙殿成の『王右丞集箋注』にも注として、『全唐詩』によれば<九州何處遠……「遠」一作「所」>と記されていますが、上野氏はこれを無視していることになります。

 では、「所」→「遠」で何が異なるのでしょうか。読み下しのように、「所」の場合は、「仲麻呂が帰る九州とは何処にあるのか」という意味になります。「遠」と直された、先の『唐詩選()』では、「中国の外にあるという九つの世界の中で、どこが一番遠いのか(きっと君の故国、日本にちがいない)。」と解釈しています。中華原理主義の立場からは九州というのは「中国全土」、「全世界」という意味にとるしかなく、夷国に九州などあってはならぬという発想で書き変えたものということです。「中国全土」というのは、聖天子禹の治めた九州という意味合いになります。しかし、本来形は、九州=九州島こそが阿倍仲麻呂の帰り行くべき所であったことを示しています。これは、その後に「主人は孤島の中」と詠われていることからも明らかです。この「主人」とは宴を主催した仲麻呂です。唐の時代には倭国の九州がそのまま認められていたということです。

 さらに、古田氏は詩に付された長大な「序」の中に、

   卑彌遣使報以蛟龍之錦(卑彌、使を遣はす、報ゆるに蛟龍の錦を以てし)

とあるように、「『三国志』の魏志倭人伝からの引用と見られる章句が特筆大書されて」いることからも、「邪馬壹国に至る、女王の都する」の「所」との呼応を考慮すべきことを指摘し、次のように記しています。

  この両者を無関係とし、「偶然の一致」と見なすならば、それこそ粗雑の鑑賞、後世の武断と評せざるをえないのではあるまいか。

  さらに、「郷樹は扶桑の外」の理解が問題となります。『唐詩選()』では、「君の故郷の木々は扶桑よりもさらに向こう生え、その故郷の家のあるじ、君は孤島の中に住む身となる。」と、「故郷の木々」は「扶桑よりもさらに向こう」とされていますが、「扶桑の樹の生える遠地の君の故郷」とするのが自然な理解と言えます。このように見てくれば、仲麻呂の帰らんとした所は「九州」島であり、王維は「君の帰らんとする九州とはどこにあるのか。」と聞いていることになります。

  そして、題が「送鼂監歸日本」から「送祕書晁監還日本國」と「國」の字が加えられていますが、本来の「日本」は、博多湾沿岸にある字「日本=ヒノモト」ということになります。宋代には、これが分らなくなり、日本国としたものと考えられます。「帰」が「還」に変えられた理由を次に見てみましょう。  
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2015年09月27日

上野誠 著『遣唐使 阿倍仲麻呂の夢』に見る粗雑な鑑賞 (1)

  先に、「天の原 ふりさけ見れば…」の解釈について上野誠氏の従来説に疑問を呈しましたが、題記の著作については未読でした。この書の内容を検討してみましょう。本書は、十七歳で養老元年(七一七)に遣唐使に同行し、唐朝の高官となり帰国を果たせずに唐で客死した中国名は仲満のち晁衡(ちょうこう)の足取りを追ったものです。本書は安倍仲麻呂を大和、奈良の出身として描いていますが、王維が阿倍仲麻呂を送る時に作った有名な詩「送鼂監歸日本」によれば、九州大宰府の地となります。この詩の解がポイントですが、著者は大和、奈良の出身を前提に注解しているため、その真実に届くことが出来ていません。実際問題、仲麻呂の出身地を記録した文書は存在しません。そして、「天の原 ふりさけ見れば…」の解釈もこの延長上で、先に論じたように従来説のままとなってしまいます。というより、この歌の解釈に基づき大和、奈良の出身とされているのが実体といえます。

  このキーポイントである王維の「送鼂監歸日本」の注解から見てみましょう。この詩の理解については、既に『九州王朝の論理 「日出ずる処の天子」の地』(古田武彦/古賀 達也/福永 晋三/著:20005月 明石書店刊)で従来説の誤りが正されていますので、これによって見ていくこととします。

 上野著では、第七章「阿倍仲麻呂と王維」で「本章は、本書の天王山である。」と記し注解を試みています。ここでは清代、乾隆帝時代の磧学・趙殿成の注他によっていますが、問題はその本文をどの版本によるかです。著者は中唐の詩集『極玄集』の冒頭が王維の「秘書晁監の日本国に環らむとするを送る」からはじまるとし、「『極玄集』は、唐の姚合の編」としながら、『極玄集』の版本ではなく、趙殿成『王右丞集箋注』版をそのまま引用、注解するという史料批判の基本が疎かにされているのがわかります。

  『極玄集』の冒頭の王維の詩は次のようになっています。

 (唐)姚合   ○王維【字摩詰河東人開元九年進士歴拾遺御史天寳末給事中肅宗時尚書右丞】

  送鼂監歸日本

  積水不可極 安知滄海東 九州何處所 萬里若乘空 向國唯看日 歸帆但信風 鼇身映天黑 魚眼射波紅樹扶桑外 主人孤島中 離方異域 音信若為通

 これに対し、趙殿成の『王右丞集箋注』は、

 送祕書晁監還日本國  幷序     王 維

で始まり、序を記した後、

  積水不可極 安知滄海東 九州何處遠 萬里若乘空 向國惟看日 歸帆但信風 鰲身映天黑 魚眼射波紅 郷樹扶桑外 主人孤島中 別離方異域 音信若爲通

 となり、次の注がついています。

  ※『全唐詩』によれば、

  九州何處遠……「遠」一作「所」。

  歸帆但信風……「帆」一作「途」。

  魚眼射波紅……「魚」一作「蜃」。

  これで判る通り、『極玄集』の題は「送鼂監歸日本」となっており、『王右丞集箋注』では「送秘書晁監還日本国竝序」となって、「秘書」が付加され、「帰」が「環」とされ、「日本」も「日本国」と「国」が加えられています。さらに、詩の中の「九州何処所」が「九州何処遠」に改竄されているのが分かります。この、「国」の付加と「処」→「遠」、「帰」→「環」の改竄の意味を著者は問うことなく、宋代以後の解釈に従い注解を試みていることになります。それが、王維の詩の理解を根本的に誤らせ、仲麻呂の歌の理解の誤りに結び付いていることが分かります。■

  
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2015年09月25日

チョムスキー『統辞構造論』の論理的誤り (3)

  「まえがき」から

『統辞構造論 付『言語理論の論理構造』序論』チョムスキー著 (岩波文庫:2014.1.16

 前回、形式主義言語観とプラグマティックな方法論との組み合わせによる定式化を見ましたが、生成文法に引導を渡すためには、その発想の根源を抑えなければならないでしょう。そのため、「まえがき」に戻り何を目指しているのかを明確にしておきましょう。 

 の研究では、広い意味の(即ち、意味論に対置されるものとしての)統辞構造と狭い意味の(即ち、音素論と形態論に対置されるものとしての)統辞構造の両方を取り扱う。

 最初に、意味と語に対置されるものとしての文が構成される仕組み、つまり文法の研究であることが宣言されています。ここに明らかなのは、言語、意味、音素、形態とは何であるか、その本質を明らかにすることは最初から放棄されているということです。というか、すでに既知のこととして扱われています。続いて次のよう述べています。

  本研究は、言語構造の形式化された一般理論を構築し、またそうした理論の基礎を探求しようとする試みの一部を成すものである。

  ここでは、「言語構造の形式化された一般理論を構築」すること、つまり形式的な扱いに何の疑問も抱かれていません。対極的な発想として、十六年前の1941年に公刊された、時枝誠記の『国語学言論』の「序」を見てみましょう。

  私は本書に於いて、私の国語研究の基礎をなす処の言語の本質観と、それに基づく国語学の体系的組織について述べようと思う。ここに言語過程説というのは、言語の本質を心的過程と見る言語本質観の理論的構成であって、それは構成主義的言語本質観或いは言語実体観に対立するものであり、言語を専ら言語主体がその心的内容を外部に表現する過程と、その形式において把握しようとするものである。…… さて、以上述べた様に、言語の本質の問題を国語学の出発点とすることには、方法論的に見て恐らく異論があり得ると思うのである。言語の研究を行う前に、言語の本質を問うことは、本末の転倒であって、本質は研究の結果明らかにされるべきものである。従って言語研究者は、言語に於いて先ず手懸りとされる処の音声、意味、語法等の言語の構成要素についての知識を得ることが肝要であるとするのである。しかしながら、部分的な知識が綜合されて、やがて全体の統一した観念に到達するとしても、既に全体をかかる構成要素に分析して考える処に、暗々裏に言語に対する一の本質観即ち構成主義的言語観が予定されて居りはしないか。私の懼れる処の危険は、言語の研究に当って、一の本質観が予定されていることにあるのではなくして、寧ろ白紙の態度として臨んでいる右の如き分析の態度の中に、実は無意識に一の言語本質観が潜在しているという処にあるのである。そして、かくして分析せられ、綜合せられた事実が、客観的にして、絶対的な真理を示しているかの如く誤認される処にあるのである。この危険を取り除く処の方法は、言語研究に先だって、まず言語の本質が何であるかを予見し、絶えずこの本質観が妥当であるか否かを反省しつつ、これに検討を加えて行くことである。言語研究の過程は、いわば仮定せられた言語本質観を、真の本質観に磨上げて行く処にあると思うのである。換言すれば、言語研究の指名は、個々の言語的事実を法則的に整理し、組織することにあるというよりも、先ず対象としての言語の輪郭を明らかにする処になければならないといい得るのである。言語本質観の完成こそは、言語研究の究極目的であり、そしてそれは言語の具体的事実の省察を通してのみ可能とされることである。(時枝誠記『国語学言論 ()』岩波文庫)

  チョムスキーの形式主義的、プラグマティックな発想とは根本的に異なることが明瞭です。これこそが、対象の本質をとらえようとする唯物弁証法的な発想であり、時代の相違とは言え隔絶したものがあります。ここには、科学とは対象の普遍性、法則性の認識であるという科学の本質が正しく捉えられています。時枝が懼れているように、無意識に構成主義的言語本質観を前提とし、「かくして分析せられ、綜合せられた事実が、客観的にして、絶対的な真理を示しているかの如く誤認され」ているのが生成文法の本質といえます。

  
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2015年09月22日

チョムスキー『統辞構造論』の論理的誤り (2)

非文という主観的判定法  

『統辞構造論 付『言語理論の論理構造』序論』チョムスキー著 (岩波文庫:2014.1.16 

 前回は、「言語Lの文法とは、Lの全ての文法的列を生成し、非文法的列を1つも生成することがない装置ということになる。」という形式主義的文法の定義を見ましたが、では具体的にどのように進めるのかを見てみましょう。次のように述べています。

  言語に対して提案された文法の妥当性をテストする一つの方法は、その文法が生成する列が実際に文法的かどうか、即ち、母語話者にとって容認可能かどうか等を確認することである。

何と、文法装置の論理的本質、構造を解明するのではなく、文法の妥当性をテストする一つの方法が母語話者にとって容認可能かどうか等を確認すること」なのである。つまり、「各々が有限の長さを持ち、また、要素の有限の集まりから構成される文の(有限あるいは無限の)集合として言語Language)を考えて」、この中で「文法的列」であるか否かは「母語話者にとって容認可能かどうか等を確認すること」だというのです。しかしここでは、母語話者」とされていますが、実際の運用としてはどうなるのでしょうか。何の事はない、それを論ずる論者自身でしかありえないということです。つまり、言語、文法を論ずる論者の主観に依拠して判断されるという、実にプラグマティックな発想そのものなのです。「テストする一つの方法」と記していますが、このような論理展開では実際問題この方法しかなく、以後、現在までこの方法に依拠し論理が展開されているのです。これでは、とても客観的、本質的な言語の解明に至らないことは方法論的にも、論理的にも明らかです。

 そして、次のような良く知られた文例が登場します。当該節を全部引用します。

2.3 第2に、「文法的」という概念は、意味論における「有意味な」(meaningful)や「有意義な」(significant)といった概念を同一視することは出来ない。例文(1)(2)は共に意味を成さないことに変わりはないが、英語の話者なら誰でも前者のみが文法的であることが判るだろう。

  (1) Colorless green ideas sleep furiously

   (色のない緑の観念が猛然と眠る)

(2) Furiously sleep ideas green colorless

 同様に、(5)よりも(3)を、(6)よりも(4)を選ぶ意味的理由はないが、(3)(4)のみが英語の文法的な文である。

  (3) have you a book on modern music?

       (あなたは近代音楽についての本をもっていますか)

 (4) the book seems interesting

 (その本は面白そうだ)

 (5) read you a book on modern music?

  (6) the child seems sleeping

 こうした例が示しているのは、意味に基づく「文法性」の定義を求めることは全て無駄だということである。実のところ、(5)と(6)から(3)(4)を区別する深い構造的根拠が存在するということを第7章で見ることになる。しかし、こうした事実に対する説明を得るためには、統辞構造の理論をそのよく知られた限界を相当超えるところまで推し進める必要があるだろう。

 ここでは、論者たるチョムスキーが読者に(1)が意味をなさないこと、(5)よりも(3)を、(6)よりも(4)を選ぶ意味的理由はないとする主観的判断に同意するよう強要しています。常識的に考えれば、意味と文法性を截然と区別しているわけではなく、(1)はある文脈では意味を持ちます。それは、その文の作者が描く想像の対象に対応した表現の場合でです。「吾輩は猫である」と漱石が表現しても意味を成すのと同じです。「(5)よりも(3)を、(6)よりも(4)を選ぶ」のは「意味的理由はない」のではなく、文法的に正しくないため意味を取るのが困難であるにすぎません。

 「意味に基づく「文法性」の定義を求めることは全て無駄だ」などというのは、意味と文法の本質がわからないままに、その関連と媒介性を理解できずに無造作に切り離しているに過ぎません。言語規範である文法に従った文でないと意味の理解が困難であることを理解、解析できないことを露呈しています。このように見てくれば、生成文法なるものが、

言語本質を捉える媒介の論理をもたない、形式主義的な定義と、形式論理に過ぎない数理論理的な表現をプラグマティックな方法と組み合わせた誤謬の論理でしかない

ことが明らかになります。生成文法の信奉者とは、この形式的扱いに眩惑されてあたかも科学的理論であるかのごとく思い込んでいる人々に過ぎません。

このように出発点から根本的に誤った論理的判断に基づいているのですが、生成文法に引導を渡すためにもこのような発想が生まれた背景と、これがもてはやされた時代背景を考察するため、一度「はじめに」に戻り思想的背景も踏まえ検討してみましょう。■

  
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2015年09月21日

「天の原 ふりさけ見れば…」― 万葉学の現在  補遺

 昨日、奈良大学教授 上野誠氏の「(匠の美)御蓋山 平城びとの月」の記事を取り上げましたが、その後で「阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)が仰ぎ見た月は、何処の月?」―「『古今和歌集』に載った仲麻呂の歌に関わる疑問」というHPの記事を見つけました。

 ここで、上野氏の著書『遣唐使 阿倍仲麻呂の夢』(角川選書:20139)に、「「天の原ふりさけ見れば」と題する一章があり、この和歌に関するさまざまな疑問を解説してある。」ことが記されていました。

 この本は未見のため、とりあえずHPの内容の前回指摘に関連する部分を転載、紹介させていただき、追って著書を読んだ感想を記させていただきます。

  ■ 「天の原」歌は、阿倍仲麻呂が天空に上った満月を見上げて詠んだとされている。しかし、上野氏は、この歌には次の2つの疑問があるという。即ち

(A)この歌を詠んだ時、作者が何処にいて、どこから見ている月か明示されていない

(B)作者がかって三笠の山に上る月を見たと云っているが、それが何時のことだったか明示されていない

つまり、この歌にはWhenWhereを示す要素が欠けていて、読者はこの歌に示された情景を思い描くことができない、と指摘されている。

 ■ しかし、上野氏はこの歌の詞書きや左注に疑問を挟まれる。先ず、『古今和歌集』は、平安中期に醍醐天皇の勅命で、紀貫之(きのつらゆき)らが中心になって延喜5(905年)ころ編纂された歌集だが、その時点で参考にした元資料には、詞書きなどついていなかったのでは・・・と推測される。なにしろ、仲麻呂が玄宗皇帝の許しを得て、藤原清河を大使とする第10次遣唐使の帰国船に便乗して帰国の途についたのは、唐の天宝12載(753年)11月で、およそ150年も前のことである。しかも仲麻呂が乗船した船は途中で難破して帰国できず、再び長安に戻り最後は唐土で客死している。そのため、当時流布されていた仲麻呂伝承に基づいて、紀貫之はこの詞書きを記したのであろう、と云われる。

  ■ さらに、左注についても、専門家の間では後人のものとされているそうだ。時代が降って、10世紀の末以降に藤原公任(ふじわらのきんとう、966 - 1041)あたりが、語りの際に挿入した註釈を付け加えたと考えられている。その結果、仲麻呂が仰ぎ見た月は、唐土の明州というところで、帰国送別宴の折に見た月、つまり海辺の月と理解されるようになった。

  ■ 『古今和歌集』に「この歌は、中国の明州で詠まれた」との左注があることから、阿倍仲麻呂が帰国の途についたのは明州、すなわち現在の浙江省の寧波市と信じられてきた。しかし、上野氏も指摘されている通り、藤原公任の理解には大きな間違いがあった。4隻からなる第10次遣唐使船が帰国のために待機していた港は、明州ではなく、蘇州の黄泗浦(こうしほ)だった。1,000年以上の歳月を経て明州とする説の誤りに気付き、現在は長江下流の黄泗浦に特定されている。

  ■ この和歌の左注では、遣唐使船が出港する前に明州で帰国送別宴が催されたと想定している。しかし、明州は誤りで、送別宴が催されたとすれば、出発を一日延期した1115日の夜で、場所は黄泗浦の楼閣だったであろう。その席上で、仲麻呂が振り返って見上げた月は、海上ではなく長江に浮かぶ満月だったはずだ。

  著書を読んでいないため、どこまでが上野氏の見解か判然としない点はありますが、前回指摘した事項に関する疑問は抱かれており、専門家の間でも諸説あるのが分かります。

 にも関わらず、今回通説に従って解説を書かれたということは単に疑問に終わり、解を得られていないことが理解されます。そして、この疑問に正しく答えるものこそ古田説であることが分かります。上野氏が満に一つも古田説をご存じないという可能性は考えられません。氏がこのような疑問を持たれたのであれば、古田説の正否を学会に問い、万葉学の正否についても問題とすることこそが、学者としての責務ではないでしょうか。

 それなしに、疑問の多い旧説を墨守し、公表、生徒を指導することは文科系学部不要が叫ばれてもやむを得ないことになるのでは。■

  
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2015年09月20日

「天の原 ふりさけ見れば…」― 万葉学の現在

  「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」(ヘーゲル『法の哲学』・序説)

  3月の記事で、「天の原」の古田武彦氏による解釈を取り上げましたが、9月19日(土)の朝日新聞「be」に(匠の美)御蓋山 平城びとの月という、奈良大学教授 上野誠氏の記事が掲載されましので、先の解釈と比較してみましょう。まず、冒頭に記された歌です。

  天の原ふりさけ見れば春日なる御蓋の山にいでし月かも  (『古今和歌集』巻九の四〇六)

 日本古典文学大系8『古今和歌集』(佐伯梅友校注、岩波書店・昭和33年3月5日第1刷発行、昭和38年10月15日第5刷発行)は次のようになっています。(ブログ「小さな資料室」より)

    もろこしにて月を見てよみける         安      麿

   あまの原ふりさけみれば かすがなるみかさの山にいでし月かも

 上野氏の解釈は、伝統的な解釈で次のようなものです。

 天空を振り仰いでみると、春日にある御蓋の山に出ていた月が思い起こされる、と訳すことができようか。春日野からおにぎり形に見えるのが御蓋山だ。その後にあるのが、春日山。だから、春日にある御蓋山と歌うのだ。

  この記事には飛火野で撮影された写真が掲載されており、標高294.mの御蓋山が中央に小さく写っており、周囲には草をはむ鹿の姿が小さく写っています。月が今にも昇る所が写されていますが、それは、古田氏が講演<『万葉集』は歴史をくつがえす>で次のように述べている事実をありありと示しているのです。

  オンフタヤマ(御蓋山)と書いてミカサヤマと読むんです。これが現地の地名としてのミカサヤマなんです。春日大社の裏山に当っていて、高さ二百九十四・一メートル、これは教育委員会で教えて貰った数値で、地図には普通ここまでの数値は出ていませんが。ふもと近くにあるのが三笠中学。この山はあまりに低すぎるのですね。大和盆地そのものの標高が百メートルほどあるので、みかけの山の高さは二百メートル弱。ここから月が出るのはむずかしいですね、なぜなら、そのすぐ東側に、春日山とか高円(たかまど)山とかの高い山がある。そうすると月は春日山とか高円山から出るじゃないですか、まさか春日山から出て、また入って御蓋山から出るわけじゃない(笑)―― そこから出るのならわかる。だから月が出るのは、春日の山にとか、高円山にとか言ってほしい。 

写真では、正に「春日山とか高円山から出」ている所なのです。古田氏が明らかにした「みかさの山」とは次のWikiの記事にある御笠山、宝満山です。

  宝満山(ほうまんざん)(標高829.6m)は福岡県筑紫野市と太宰府市にまたがる山であり、別名を御笠山(みかさやま)、竈門山(かまどやま)とも言う。

 そして、次のように述べています。

  結論としてここ、奈良の歌ではない。だから阿倍仲麻呂が日本を離れて、壱岐の「天の原」で、月が上がるのを見て作ったとすると、よくわかる。ここで船は西むきに方向を変えるので、島影に入ると九州が見えなくなる。で、ふりかえって見ると、春日なる三笠の山がある。三笠の山は志賀島――金印で有名な――にもありますのでね、目の前に二つの三笠山がある。「筑紫なる」といったのではどちらの三笠山か分らぬ。宝満山なら「春日なる三笠の山」でよい。ですから全部の条件がピシャピシャと合ってきた。こうして解けてきた。そうすると、間違っていたのはまえがきの方だった。

 たしかに、仲麻呂は明州で、別れの宴で、この歌を歌ったと思いますよ。しかし、その場で作ったのか、前から作っておいたのを詠じたのかは別の問題。日本の使いが帰ってきて、この歌を伝えたのでしょう。しかし、そこ明州で作ったというのは編者の解釈、実は間違っていた。編者の頭には大和の三笠山しかなかった。のちの人は、まえがき、あとがきをもとにして解釈しようとしたから苦しんできた。歌は直接資料、まえがき、あとがきは編者の解釈で、間違っているかもしれない。この原則を確認したのが、この歌だった。

  それは上野氏の解釈で、「天の原ふりさけ見れば」を「天空を振り仰いでみると」と解釈する他ない空虚さにも明らかです。

  古田氏は、「歌は直接資料、まえがき、あとがきは編者の解釈で、間違っているかもしれない。この原則を確認した」のち、これを万葉集に適用し『古代史の十字路 万葉批判』を20014月に公刊しました。この書の第一章が<疑いの扉「天の原」の歌」>です。氏は、講演「君が代前ぜん」で次のように述べています。

 この『古代史の十字路』(東洋書林)という本は万葉集を研究されている学者の皆さんに送りました。有名な人の中では中西進さん。近くに住んでいますから本をお送りしたことをお電話しました。また大野晋さん。かって対談したこともありますので、よくご承知です。同じくお電話しました。ですがどの人からも、まったく返事はない。答えはない。答えれば古田は、雷丘を九州だと言っているが、近畿大和のあの丘でよいのだ。このように説明すれば、十分理解できるのだ。そのように言えばよい。あるいは九州雷山であるという説では、このような理由でダメだよ。おかしい。そう言えばよい。何回も同じことを言いますが、わたしは、別に九州雷山をひいきにしているわけでは、まったくない。事実を事実として捕らえる、わたしが納得できれば別に大和飛鳥でもかまわない。しかし大和飛鳥ではまったく合わない。その立場です。

それに、この本は幸いにも版を重ねていますが、新聞の書評が一回も出ない。大体書評は、新聞社から依頼された専門家が書くものです。今言った論理が一杯詰まっているので、書けばどこかに差し障りが起こるから誰もいやがって書かない。ノーコメントであるとかってに想像して思っている。あれだけ書評が新聞に出ていて、今述べた問題がつまらないことには思えない。後生の人から見れば、なぜ書評が出なかったのか研究の対象になるのでは。

  中西進氏に長年にわたり畏敬の念を抱く上野氏としては、師の説になずむしかなく「已んぬる哉」である。宣長の『玉勝間』の一節を引用したくなるところですが。「なぜ書評が出なかったのか研究の対象になる」のは未だ機が熟していないようです。

しかし、これこそ安倍晋三の唱える「戦後レジューム」の実態ではないのか。その超克の先にしか未来は考えられません。■

  
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2015年09月19日

チョムスキー『統辞構造論』の論理的誤り (1)

                     『統辞構造論 付『言語理論の論理構造』序論』チョムスキー著 福井直樹/辻子美保子 訳
                 (岩波文庫:2014.1.16 

 前回の「英文法に見るテンス解釈(6)」には若干勇み足があり訂正いたしますが、基本的には、これまで述べた所に尽き、先も見えているので、今回は著者らが依拠する生成文法の根本的誤りを初期の著作『統辞構造論』により指摘しておきましょう。

 題記新訳が出ていますので、これによります。「第2章 文法の独立性」から引用します。(句読点は和文のままとします。) 

2.1 以下では、各々が有限の長さを持ち、また、要素の有限の集まりから構成される文の(有限あるいは無限の)集合として言語Language)を考えていく。全ての自然言語は、書かれたものであろうが話されたものであろうが、この意味における言語である。なぜなら、個々の自然言語には、有限の数の音素(あるいは、アルファベットの文字)があり、文の数は無限ではあるが、各々の文はこれらの音素(あるいは、文字)の有限列として表示されるからである。 

 ここには屈折語としての英語を、アプリオリに実体視した形式主義言語観が宣言されています。屈折語としての英語文は文頭を大文字で始め、個々の単語は分かち書きされるので、語の区分も明確であり、文末はピリオドがおかれるので形式的な文の形が明確です。しかし、音素の有限列として表示される形が文なのではありません。アルファベットの形をしたクッキーを、子供が楽しそうに無造作に並べた列を文と呼ぶことになってしまうしかありません。

膠着語である日本語の場合には、文の先頭も明確でなく、単語の切れ目も明確でないため、仮名文字が並んだ場合には読み誤りや、読めなかったりするのは日常茶飯事です。そもそも、文がアプリオリに無限に存在するわけがありません。文は話者が対象を認識し、文法を媒介として表現することにより生まれるので、個々の話者の認識の表現としてしか存在しない一回限りの表現でしかないのは自明です。 

 生成文法とは、このような誤った形式主義言語観に依拠しているため、本書のマルコフ連鎖、句構造文法から変形生成文法と当然の失敗の連続で、その都度この根底の誤謬に戻って顧みる事なく、毎回条件の抽象化によって問題を極限化しXバー理論、極小モデルへと暴走しているに過ぎません。当然、意味を扱うのは不可能なため、認識を認知に矮小化した認知言語学が生まれることとなったのです。先の文に続き次のように記しています。 

 同様に、数学の形式化されたシステムがもつ「文」の集合もまた言語と見なすことができる。言語の言語分析の根本的な目標は、言語の文である文法的(grammatical)列を、の文でない非文法的(ungrammatical)列から区別し、文法的列の構造を研究することである。従って、言語の文法とは、の全ての文法的列を生成し、非文法的列を1つも生成することがない装置ということになる。

  ここでは、形式化された文字列から文法的(grammatical)列を区別し、これを生成する装置が文法とされます。これが、普遍文法なるものの正体です。これでは、文法の本質はまったく明らかにならず、非文法的(ungrammatical)列を判定すべき論理的根拠も導きようがありません。この困難をどのように乗り越えるのかを次に見てみましょう。■

  
Posted by mc1521 at 18:25Comments(0)TrackBack(0)言語