2015年11月04日

助動詞「だ」について(3)

   語とは何か。(2)
談話レベルから見た「だ」の意味機能―「だ」の単独用法を中心に―」劉 雅静
― 言語学論叢 オンライン版第 3 号 (通巻 29 号 2010)
 三浦つとむの「語の分類について ― 山田孝雄は西欧模倣に反対する」の引用を続けて行きます。

 言語は表現としての過程的構造を持っている。現象的な音声や文字のありかただけが言語の構造ではなく、その背後には表現主体の認識が、ひいては対象の構造がかくれているのであるから、立体的な存在である。語を分類するときにも、この立体的な存在のある側面においておこなうのであるから、語の分類もそれぞれの側面での分類が相互にむすびつくことになり、平面的ではなく立体的になる。この一事をもってしても、西欧の文法書の品詞分類の弱点が指摘できるし、さらに仔細に見るならば、ある品詞は意味の側面で、ある品詞は機能の側面で、ある品詞は構造の側面でというように、さまざまな側面でとらえたものをならべているだけで、基本的な側面でこれとこれが区別されるのだという扱いかたがなされていないことがわかる。分類ということは、何も言語だけの問題だけではない。他の事物についても必要なことであって、これまでにも多くの事物がいろいろ分類されて来た。この分類は、いずれも対象の構造によって規定されているのであって、言語とても例外ではありえない。つまり、分類についての一般論が科学として成立するのであって、この一般論をふまえながら語の分類を考えていくならば、一応ふみはずしを防げるといってよい。それにもかかわらず、言語学者は分類の一般論をふまえて語の分類を考えているとは思われないのである。それゆえわれわれは、まずはじめに手近な、立体的ではあるが簡単な構造を持つ事物をとりあげて、分類の方法を反省してみよう。

 嗜好飲料には、ジュースやコーラやビールや酒など多くの種類があって、それらがガラスびんやプラスチックびんや缶や樽などに詰めて売り出されている。店頭にならんだこれらの商品について、何が基本的な問題かと言えば、中味は何か、であって、それに伴う第二義的な問題として、どんな容器に入っているか、がある。具体的にいうなら、コーラはきらいだからジュースをのもうというのが第一で、登山に持っていくのだからびんではなく軽い缶のほうがいいというのが第二である。軽ければ中味はどうでもいいというわけではない。それで嗜好飲料の分類も、まず中味でわけた上で、つぎに容器の特殊性をとりあげてどれがどんな長所を持つかを明らかにし、これによって中味の分類を補うのである。「登山やハイキングには、軽くて持ち運びに便利な缶入りジュース(缶入りビール)を」というCMにもなる。この方法を普遍化すると、中味は内容で容器は形式であるから、事物を内容と形式の統一においてとりあげる場合には、まず内容についての大きな分類が基本となり、それを形式についての分類で補うべきだ、ということになろう。これはまた、形式を不当に重視して第一義的に考える形式主義では正しい分類を行うことができない、と教えているわけであって、形式主義者の行った分類をうのみにするな、と警告していることになる。

 同じ嗜好飲料に属するジュースとコーラも、容器の壁にかかる圧力の点では大きな違いがあって、周知のようにコーラはしばしば爆発を起こしている。容器のありかたがジュースとコーラとではちがってくる。一般論でいうならば、内容は形式と区別されなければならないが、相対的な独立であるから、内容の変化はある条件において形式のありかたを大きく規定してくるのである。ビールのびんもしばしば爆発を起こしているが、これを現象的にとりあげて、ビールもコーラも同じアルコール性の飲料だというならそれは誤っている。言語は一般的な認識を直接表現するのだが、概念にしても抽象のレベルはさまざまであって、きわめて高度の抽象になると形式面を大きく規定してくる。<名詞>はふつう自立して使われるが、「もの」(物、者)「ところ」(所)「こと」(事、言)のような高度の抽象になると、「ものがものだから大切に」「ところ変われば品変わる」「ことと次第では考えよう」などと自立して使われることは少なくて、「きもの」「くいもの」「はれもの」「おとしもの」「くせもの」「しれもの」「おろかもの」「いどころ」「みどころ」「うちどころ」「かんどころ」「しごと」「ひめごと」「こごと」「ねごと」「うわごと」などのように、多面的・立体的な把握のときの複合語として使うことが多い。<動詞>も同様に「ある」「いる」「する」「なる」のような高度の抽象になると、「ひろげてある」「死んでいる」「つめたくする」「暖かくなる」などのように、多面的・立体的把握のときに他の具体的な属性表現と連結して使うことが多い。抽象的であろうがなかろうが、自立して使われなかろうが、これらはやはり<名詞>であり<動詞>であることに変わりはない。それが客体の把握であり客体的表現であることに変わりないからである。その特殊性に目をつけて、これらを<形式名詞><形式動詞>などと分類しているけれども<抽象名詞><抽象動詞>とよぶのが適当であろう。抽象的か具体的かで、大きな分類が変わるわけではない。<抽象動詞>が<助動詞>と同じように抽象的で<活用>があるからという理由で、いっしょくたに扱ってはならぬのは、ビールを薄めてもサイダーといっしょに扱えないのと同じである。》

  現在テーマにしている論文の筆者が、<形式動詞>をこのようなレベルで理解できていれば、おのずと異なった展開になったはずなのですが。しかし、根本的には「言語は表現としての過程的構造を持っている。」ことが形式主義的発想では理解できないところにあるということでしょう。引き続き、「語の分類について」の展開を追ってみましょう。■

  
Posted by mc1521 at 10:20Comments(0)TrackBack(0)文法