2015年11月03日

助動詞「だ」について(2)

談話レベルから見た「だ」の意味機能―「だ」の単独用法を中心に―」劉 雅静
― 言語学論叢 オンライン版第 3 号 (通巻 29 号 2010) 
  語とは何か。(1)

 題記論稿では助動詞「だ」を<形式動詞>と見なすのですが、助動詞と形式動詞とは何であるのかが機能的に比較されているにすぎません。これは現在の言語学の品詞分類が機能に依拠した屈折語文法の分類を模倣しているに過ぎないことを明かしています。これを乗り越えるためには、まず語とは何かを明らかにし、さらにその分類方法を見直さねばなりません。この点を根本から見直し、論じたのが、三浦つとむの著書「認識と言語の理論 第三巻」(勁草書房刊197211月)に収録されている「語の分類について」です。長くなりますが、まずこれを引用します。

  語の分類について

    一 山田孝雄は西欧模倣に反対する

  語の分類ということは、一見さほど困難でないように思えるが、実は容易ならぬ問題である。日本語は西欧の言語のようにわかち書きをしていないから、日本語について論じる学者はそれをどう区切って一語とみとめるかという、いまひとつの問題をいっしょに負わされている。そしてこの二つの問題は決して無関係ではなく、一方でのふみはずしは否応なしに他方の解決を歪めることになる。区切りかたについての自分の原則を持たないと、西欧の言語のわかち書きから類推して区切りを行い、これに西欧の文法論を焼き直した分類を与えるということになりかねない。日本の学者は、明治のはじめから今日に至るまでこれらの問題をつきつけられている。類推や焼き直しもいまもってあとを絶たない。

 自主的にかつ科学的にこれらの問題を解決するには、語或いは単語とはいったい何であるか、その本質を把握することが不可欠である。山田孝雄(やまだよしお)はその把握の必要を理解するとともに、それが困難であることをも自覚していた。『日本語文法概論』はつぎのように述べている。

  実に語の単位といふものは文法研究の一切の基礎となるものなり、これは吾人が一つ一つの語と考ふるものをさすなるが、その一つ一つの語とは何ぞやといふ問題に対してはこれに答ふることは容易のことにあらず。従来これを単語といひ、それを説明して「箇々の語」などといへるが、かくの如きはたゞ語をかへていへるに止まり、説明とは見るべからず、われらの要求する所はその箇々の語とは何ぞやといふことの説明なり。

  彼はこのように、西欧や日本の学者が思考停止していた基礎的な問題をとりあげて、自分の理論を提出したのである。いわゆる<名詞>を一つの語と認めることでは誰の見解も一致するが、問題はさらにそのさきに控えている。たとえば、「なべぶた」(鍋蓋)は「なべ」と「ふた」の二語から構成された一の語であることは、漢字で表現する場合からみても明らかであるが、「まぶた」(瞼)は同じように「め」と「ふた」の二語から合成された語でありながら、誰もこれを二語の合成として扱わないし、漢字で表現する場合にも一字で記している。これは合成語として扱うべきものか否か、その理論的根拠はどうか。これに答えなければ語とは何ぞやという問題を解決したことにはならない。また「辛い」(からい)を一つの語と認めることでは大体において異議はないが、「辛み」「辛さ」「辛め」という場合の「み」「さ」「め」を<接尾語>として一つの語と認めるかそれとも<形容詞>の語尾変化と認めるかでは意見がわかれているし、<接尾語>説の中には「辛い」の「い」もまた<接尾語>だという主張も存在する。これにも理論的に答えなければならないのである。

 西欧の文法書は、現象的に区切られている語を平面的に羅列して、八品詞とか十一品詞とかいろいろ分類している。山田はこの西欧の分類も吟味して、哲学者の手になるものであるから無用のことを規定したかに思われるものもあるといい、日本の学者に向かっては、現に八品詞または九品詞の分類を行っているが果たして事実を充分にしらべてから日本語の品詞を定めたのか、おそらくそうではなくて漫然と模倣したのであろうとたしなめている。そして山田以後の学者も、それまでの平面的な羅列ではなく、個々の品詞を超えた基礎的な分類の中にそれらを位置づけようとしているのである。それゆえ焦点は、その基礎的な分類が果たして合理的であるか否かに置かれることになったが、ではそれをどのように吟味したらよいであろうか、語とは何ぞやという問題は、この基礎的な分類いかんという問題と結びついているし、それはまた言語とよばれる表現の本質的な特徴は何かという問題とも直接にむすびついている。言語学者の分類の失敗は、この最後の問題についての正しい答えを持ち合していないことと無関係ではない。》

  この論が記され、公刊されてから既に43年が経過していますが、事態は何も変わっていません。むしろ、欧米の日本語学習者に合わせて欧米言語学へのもたれかかりがより進行し、国語学もまたこれに引き摺られているのが現状で、この誤りを正さねばなりません。それは西欧言語学の機能主義の誤りを正すことにもなります。この点は今問題にしている論稿に見られる通りです。続けて、みていきましょう。■

  
Posted by mc1521 at 16:43Comments(0)TrackBack(0)文法