2015年11月06日

助動詞「だ」について(4)

談話レベルから見た「だ」の意味機能―「だ」の単独用法を中心に―」〕劉 雅静
言語学論叢 オンライン版第 3 号 (通巻 29 号 2010)
   語とは何か。(3) 

 三浦つとむ「語の分類について ― 山田孝雄は西欧模倣に反対する」の、分類についての一般論に続けて山田孝雄の分類を論じています。劉 雅静氏の論文では、山田他の<「だ」を「用言」と見なす先行研究>を取り上げていますが、なぜそのような見解が生まれたかについては問う事なく、単に新たな説を加畳するにすぎません。これを明治からの西欧文法受け入れの歴史的批判に立ち戻り誤りを正しているのが三浦の論考です。この節の最後の部分です。

 西欧の言語は、現象的に一語のかたちをとっていても、その内容が多面的・立体的であって、日本語の複合語ないし二語に相当するものがすくなくない。このことは、語の分類をさらに困難なものにしている。古代のアリストテレスの四品詞観も、現代のイエスペルセンの五品詞観も、ともに現象論にとらわれた平面的な分類であって、西欧の言語にすら妥当なものとはいいがたい。日本語の特殊性にある程度の理解のある学者なら、たとえ西欧の言語に妥当な分類であってもそのまま日本語に持ちこめないくらいは見ぬけるのであって、大槻文彦が西欧の文法論と日本の伝統的のそれとを折衷させて自分の文法論をつくりあげたのも無理からぬことであった。山田はさらにすすんで、語とはなんぞやと問い、自分の回答の上に語の分類を行おうとした。いわく

……これを独立の観念の有無によりて区別すれば、一定の明かなる具象観念を有し、その語一個にて場合によりて一の思想をあらわし得るものと然らざるものとあり。一は所謂観念語にして他は独立の具象的観念を有せざるものなり。この一語にて一の思想をあらわすことの絶対的に不可能なるものはかの弖爾乎波の類にして専ら観念語を助けてそれらにつきての関係を示すものなり。この関係を示す語と、それら関係語によりて助けらるる語との区別はかの具象的観念を単独に有するものと有せぬものとの区別に該当す。この故に、先ず単語を大別して観念語と関係語との二とす。ここに観念語と目するものは所謂名詞、代名詞、数詞、形容詞、動詞、副詞、接続詞、感動詞なり。これらは皆何等かの観念を代表し、時としては一語にて一の思想を発表し得べき性質を有するものなり。その関係をあらわす語は或る観念を明かに指定せるものにして、一定の関係に立ちて用ゐらるるものなり。その関係をあらわす語は極めて抽象のものにして所謂助詞と称せらるるものなるが、これは元来国語に於いて観念語操縦の為に生ずる種々の範疇を抽象したるものが言語の形をとれるものなりとす。

この観念語と関係語との区別はたゞ意義形態の上より来れるにあらずして、実に談話文章を構成する上に及ぼす職能作用の異同より来れるものなりとす。……

言語には、意義・形態・職能とさまざまな側面があるが、山田はそのうちのどれが基本的かを問うことなく、全体をひっくるめて直ちに分類の基準に持ちこんだのである。これによって、彼は意識することなしに西欧の学者たちの弱点を受けつぐ結果となった。形式と内容との間には矛盾がある。言語も例外ではない。意義と形態だけではその間の矛盾にぶつかってどう処理するかに苦しむから、そのとき第三者である職能に援助を求めるのである。そこで<観念語>と<関係語>との区別も、「三の点において著しく認めらる」ということになった。第一は、「観念語は必要に応じて一の語を以て一の思想を発表し得る性質を有す。然るに関係語たる助詞にはこの性質全く欠如せり。」という点である。第二は、「一は他を助くるを職能とする性質のものにして、他はそれらに助けらる々性質のものにして、この差別はその本性上の差異に基づくものにして、論理上二者は判然と区別せらるべきものなりとす。」という点である。第三は「関係語たる助詞は必ずその助くる対者たる語の下について決して上には行かぬといふ語なり。」という点である。第一は意義からの、第二は職能からの、第三は形態からの規定だというわけである。ところが、第一と第三だけだと、のちに時枝誠記が指摘したような問題にぶつからざるをえない。意義においては具象的観念で<観念語>というべきものでありながら、形態においては他の語の下に必ずつくから<関係語>といわねばならないような、<助動詞><接尾語>が存在するのである。そこで職能として他を助けるという第二の規定を持ち出して、二対一でこれらを<関係語>に入れるというやりかたである。最後には、「職能作用の異同」を持ち出すことになったわけである。1

嗜好飲料の分類を、山田的に行う者はいないが、もし行ったらどうなるか?酒は愛好する者が集まって、楽しくくみかわし、親睦を深めていくところに価値があるといい、そこで中味だけではなく各自が容器を手に持ってついだりつがれたりする形態と機能を加え、三つの点から分類するとしよう。殺人の目的で青酸加里を入れた酒は酒ではなく、またガラスびんやプラスチックびんは酒の中に入るが醸造元で桶やタンクの中に入れてあるものは酒の中から追放されてしまうであろう。嗜好飲料をまずどこで分類するかという場合に形態や機能を捨象しているのが正しいなら、同様に言語をまずどこで分類するかという場合にも、形態や機能を捨象するのが正しいことになるのである。

 先の注1は、次のように記されています。

どんな学問の分野でもそうであるが、本質論を正しくとらえることができなければ、形式論・機能論・構造論のどれかを本質論にスリ変えなければならない。同じ機能論者でも、どこまでそれをおしすすめ、どこまで機能主義的に解釈しているかは学者によってちがうし、またそこから学者の能力いかんを読み取ることができるのである。■

  
Posted by mc1521 at 10:15Comments(0)TrackBack(0)文法