2015年11月24日

助動詞「だ」について(17)


〔『名古屋大学言語文化論集』 第22巻第2号(名古屋大学言語文化部・国際言語文化研究科:2001.3)〕
    <助動詞>「だ」の捉え方(4)

 今回は、杉村 泰 稿「ヨウダとソウダの主観性」について検討してみましょう。金田一が提起した主観性が謳われています。「1.はじめに」を見てみましょう。

 一般に日本語の文末表現「ニチガイナイ」、「ヨウダ」、「ソウダ」、「ベキダ」などは、話し手の主観的な態度を表すモダリティ表現であるとされている。

  (1)a.太郎が来るニチガイナイ

   b.太郎が来るヨウダ

   c.太郎が来ソウダ

    d.太郎がくるベキダ

この考えに従うと、(1)の各表現は「太郎が来るコト」という客観的な命題について、話し手が「ニチガイナイ」、「ヨウダ」、「ソウダ」、「ベキダ」という主観的な判断を下したものであるということになる。これを図1に示す。

    【〔太郎が来る〕 ニチガイナイ、ヨウダ、ソウダ、ベキダ】  

           図1 従来考えられてきた文の構造

 しかし、「ソウ」と「ベキ」は客観的な命題として機能していると考えたほうがよい。その証拠に「ニチガイナイ」と「ヨウ」が疑問の対象とならないのに対し、「ソウ」と「ベキ」は疑問の対象となる。疑問の対象となるということは、「ソウ」や「ベキ」が話し手の存在とは独立した客観的な事態を表していることを示している。

(2)a.*[太郎が来るニチガイナイ]かどうかを考える。

   b.*[太郎が来るヨウ]かどうかを考える。

   c. [太郎が来ソウ]かどうかを考える。   

  d.  [太郎が来るベキ]かどうかを考える。

こうした事実により、「ニチガイナイ」と「ヨウダ」がそれ全体でモダリティとして機能するのに対し、「ソウダ」と「ベキダ」は「ダ」の部分のみモダリティとして機能し、「ソウ」や「ベキ」の部分は命題として機能することが明らかとなる。したがって、(1a)と(1b)は「太郎が来るコト」という事態について「ニチガイナイ/ヨウダ」という概言的な判断をした表現であり、(1c)と(1d)は「太郎が来ソウナコト」、「太郎が来るベキコト」について「ダ」という確言的な判断をした表現であるということになる。このことを図2に示す。

      【〔太郎が来る〕 ニチガイナイ、ヨウダ】

      【〔太郎が来ソウ、来ルベキ〕ダ】

         図2 本研究で考える文の構造

 以上の表現のうち、本稿では「ヨウダ」と「ソウダ」の主観性の違いについて考察する。なお、「ニチガイナイ」と「ベキダ」については稿を改めて論じることにする。

 これもまた、機能的な発想の塊で、さらに命題が文の内部構造として提示されモダリティ機能が論じられます。<「ソウ」や「ベキ」の部分は命題として機能する>とされますが、これも言語実体観の発想で、本質が無視されています。認識を扱えないとこのようになるしかないのが分かります。<「ダ」という確言的な判断>がどのように位置づけられるかに興味があります。

まず気づくのは、いつもの生成文法のプラグマティクな発想である非文「*」の扱いです。何ら論理的な根拠もなく主観的判断で非文として論拠にする誤りです。

(2)a.*[太郎が来るニチガイナイ]かどうかを考える。

これは、別に非文ではありません。「太郎が来るに違いないかどうかを考える。」とすれば、さらに明確です。また、「太郎が来るようなのかどうかを考える。」も問題ありません。

そして、主観性の相違により「ヨウダ」はモダリティとして機能し、「ソウダ」は「ソウ」+「ダ」と分離されて、「ソウ」は命題として機能し、「ダ」がモダリティとして機能すると結論づけられます。もっとも、「ヨウダ」が一語なのか、「ソウダ」が二語なのかは触れられていません。

なぜ、このような奇妙な論理が展開され、結論されるのかを辿ってみましょう。■

  
Posted by mc1521 at 15:47Comments(0)TrackBack(0)文法