2015年11月02日

助動詞「だ」について(1)

 「壁塗り構文」問題について格助詞の扱いを見て来ましたが、形式主義、機能主義的言語論で助動詞がどのように扱われるかを肯定判断の助動詞「だ」に関する論考により見てみましょう。

 <談話レベルから見た「だ」の意味機能―「だ」の単独用法を中心に―>【劉 雅静: 言語学論叢 オンライン版第 3 (通巻 29 2010)】ですが、扱われているのは次の文です。 

  (1) 彼は学生だ。

 そして、次のように問題が提起されます。 

 例 (1) における「だ」は体言に接続し、助動詞として理解されやすいが、しかし、談話において、次の例 (2) (3) が示すように、「だ」は単独で文頭やターンの冒頭に出現したり、完結した文そのものに付いて用いられたりする場合もある。 

(2) 「桂太君かっこよくない!?」

 「だね、一際目立ってるかも…」『虹色の約束』

(3) どうせ、わたしはバカですよーだ。 (メイナード2000: 201)

談話における「だ」の出現位置と「だ」の意味機能の関係は興味深いことであるが、本稿では、例 (2)のような「だ」を考察対象とし、文頭やターンの冒頭に単独で出現する「だ」のことを単独の「だ」と呼ぶことにする。本稿の目的は、「だ」の単独用法を指摘・考察することによって、「だ」はいわゆる助動詞ではなく、形式動詞であることを主張するとともに、単独の「だ」の談話機能を明らかにすることである。 

タイトルからして「意味機能」で、「だ」の言語表現としての本質ではなく、意味機能や談話機能が問題とされます。本質から機能を導くという科学的な発想は見られず、機能が本質とされてしまいます。現在の国語学界や言語学会の論文や著作はすべて「~の機能について」なので、レヴェルが窺えます。

まず、品詞分類の先行研究の定義が示されます。 

「だ」の品詞分類に関して、従来から「助動詞」説と「用言」説の二つの立場がある。表1 が示すように、「助動詞」説には松下 (1961)、時枝 (1966)、橋本 (1969)、鈴木(1972) 等がある。「だ」を助動詞と見なす根拠として、「だ」は独立して一文の文頭に用いられないことや独立せず、常に他の語に伴って現れるといったことが主張されている。 

1 「だ」を「助動詞」と見なす先行研究

先行研究

松下 (1961)、時枝 (1966)、橋本 (1969)、鈴木 (1972)

 

主  張

・独立して一文の文頭に用いられない

・独立せず、常に他の語に伴って現れる

・他の語と共に一文節をなす


 これらの定義は、全て独立しているか否か、他の語と共に文節をなすかという形式や機能により定義されています。他方、助動詞と見なさない説もあります。

 一方、表2 が示すように、「だ」を助動詞と認めず、一種の用言と見なす立場もある。本稿では、こういった先行研究の立場をまとめて「用言」説と呼んでおく。その中に、山田 (1936) では「だ」は存在詞で、陳述作用を持つと述べている。渡辺 (19531971) や寺村 (1982) では「だ」は判定詞であるとし、北原 (1981) では「だ」は形式動詞で、詞相当のものであるとしている。小泉 (2007)では「だ」を準動詞と呼び、名詞的形容詞や名詞を述語化するための語尾要素にすぎないと指摘している。

         表2 「だ」を「用言」と見なす先行研究     

先 行 研 究

主 張

山田 (1936)

存在詞

渡辺 (19531971)、寺村 (1982)

判定詞

北原 (1981)

形式動詞

小泉 (2007)

準動詞

 ここでは、動詞他の類に入れられ、山田は助動詞を動詞の複語尾としていますが、「ある」との意味の類似性から存在詞とするという特別扱いをしています。小泉でも語尾要素にされています。さらに、形式に対して意味機能に対する先行説が示されています。これに対し、先の問題提起がされます。

 本稿では、自然会話を考察対象とし、文頭やターンの冒頭に立つ「だ」の単独用法を指摘することによって、「だ」は助動詞ではなく、形式動詞であることを主張する。また、談話レベルにおける「だ」の使用を考察することによって、「だ」は言語的或いは非言語的文脈を代用する機能を持つことを主張する。

  「だ」を形式動詞とし、「言語的或いは非言語的文脈を代用する機能を持つこと」が主張されます。何と、代用機能までもたされてしまいます。形式動詞というのも形式だけで内容がないということであり本来誤った名称と言えます。このように、本質を考えることなく形式と機能にたよる分類では見方によりそれぞれ恣意的な解釈が生みだされることになります。そもそも、名詞、動詞、形容詞類と助詞、助動詞類に本質的な差異があるのか否かも不明です。現在の記述文法や教科研文法では語彙機能と文法機能などという基準まで持ち出されています。

 この論考の主旨は、談話文においては、(2)(3)のような、文頭に単独で「だ」が使用される例が頻出し、構文の意味論的・語用論的考察から導かられた助動詞の定義ではこれを説明できないというところにあります。

 たしかに、文であろうと談話であろうと言語であることには変わりなく、これらに対し一貫した説明が出来ないような定義は論理的、科学的とは言えません。

 北原 (1981)でも「いわゆる助動詞」と助動詞の明確な定義を示すことができず、日本語文法、生成文法、や記述文法も同様なレベルです。この点、時枝誠記の助詞説が特徴的です。この点は、また別途論じましょう。

談話での使用例は何も談話に限る話ではなく、小説中の会話表現にも出てくるもので、いまさら談話などと特別視するのがおかしいと言えなくもありません。そもそも、助動詞の機能的、形式主義的な定義そのものに問題があるというのが本来の課題です。

これは、やはり言語とは何かの本質に立ち返り考察することなく、機能と形式を玩んでも根本的な解決になるとは考えられません。先ず問題になるのは、単語とは何を言うのか、どのように定義されるかです。■

  
Posted by mc1521 at 22:42Comments(0)TrackBack(0)文法