言語学論叢 オンライン版第 3 号 (通巻 29 号 2010)
動詞…自立語で活用があり、動作・作用・存在を表す単語で、述語になる単語。
言い切りの形が「ウ」段で終わる。[笑う(u) 書く(ku) 寝る(ru)]
これも形式と共に意味、機能が挙げられ述語になる単語とされています。客体的表現である<動詞>の本質はどのように捉えられるのでしょうか。
日本語は、言語形態として膠着語あるいは粘着語と呼ばれています。プロイセンの外交官、言語学者でフンボルト大学の創設者でもあった、カール・ヴィルヘルム・フォン・フンボルト(Friedrich Wilhelm Christian Karl Ferdinand Freiherr von Humboldt、1767年6月22日~1835年4月8日)が1836年に提唱した形態論上の分類で、西欧の屈折語と対比されます。日本語は「彼 本 持つ」と客体的表現の語を並べただけでは不完全な表現であり、「彼は本を持っています。」と<助詞>、<助動詞>を使って語を粘着的に連結して初めて文として完全な表現となるところに大きな特徴があります。屈折語である英語の場合は「He has a book.」と語を区切って表現し、「彼 持つ 本」で表現として完全なのです。そして、「彼は本を持っていた。」と過去形になれば、「He had a book.」となります。この場合、<動詞>「has」は「have」の三人称現在形で、主語が三人称であり、現在であるという時制認識を表し、過去形の場合の助動詞「た」は動詞の屈折が担っています。<助詞>「は」「を」の表現は省略されていますが、SVOという文型規範により主格、目的格という格を名詞が担っています。このように屈折語にも日本語の<助詞>、<助動詞>に相当する内容は存在していますが、その表現を省略したり、あるいは一語の形式をとらずに単語の語形変化で表現したりする場合が多いのです。そのため、形式上は自立した一語でも、内容は多面的・立体的なものになります。しかも<動詞>に見られるように、単なる多面性ではなく動作、人称、時制という客体的表現と主体的表現という対立した性格の認識を表現した部分が癒着し結合しています。しかし、膠着語である日本語の単語は名詞でも動詞でも単独の概念を裸体的に表現するだけです。これこそが、膠着語と言われる日本語全体の特徴で、内容における「裸体的」性格と形式における「粘着的」連結とを相伴うところの言語形態なのです。
このような、日本語の裸体的性格を踏まえれば、<動詞>は対象の属性を運動し発展する時間的に変化するものとして認識し表現するもので、この認識だけを表現しています。時間的に変化しない静的な属性は形容詞として表現されます。そしてこれら客体的表現の語に、話者の判断、感情、意志等を客体化することなく表現した主体的表現を組み合わせることにより一纏まりの思想を文として表現します。このように本質的に異なる表現である、客体的表現の<詞>と主体的表現である<辞>を混同してしまうのは、本質ではなく形式と機能を基に語を分類した論理的強制ということになります。
この論文では助動詞「だ」が<形式動詞>とされますが、この内容も定義されていません。対象となっている属性について具体的に知らなかったり、知っていても簡単にしか表現できなかったり、簡単な表現で足りる場合は抽象的な内容の語で表現します。動的な表現では、
どこにあるのか。 (ある)
どうするつもりか。 (する)
誰かいるのか。 (いる)
どうなるだろうか。 (なる)
こうやるのだ。 (やる)
そうしてもらうか。 (もらう)
そうなさい。 (なす)
よろしくお願いいたします。 (いたす)
等があります。これらの<動詞>が<形式動詞>と呼ばれています。これらは、具体的な内容を持つ<動詞>と組み合わせて、「空を飛んでいる。」「川が流れている。」「捜査を依頼してある。」「窓が開いている。」等と使用され、対象の属性を具体的と抽象的にとらえ立体的に表現しています。そして、「誰か居るだろう!」「誰が居るのだ!」のように<指定の助動詞>「だ」と組み合わせ使われます。
主語、述語というのは屈折語の文がSVO、SVOC等の文型を言語規範として持ち、主語と述語の間に人称等の結び付きが対応している所から生まれた、スーツケース型の定形表現に見られる、文中の語・句の持つ機能の名称であり、この機能をもとに品詞を分類することはできません。
<助動詞>の表現としての本質を捉えることが出来ずに「実質的な概念内容を持たず」とするしかなく、記述文法、教科研文法のように「文法的機能」や、本論文の生成文法のように「述語を代用する働き」を本質とすり替えている現状では科学的な言語論、文法論を築くことはできません。■