2015年10月19日

形式主義言語論の「壁塗り交替」という現象論 (6)

   「感情動詞の補語についての一考察 ―「ニ」と「デ」について」(4)

 先に続き、次のように記されています。

  また、次のように、「二」と「デ」が共起する場合の「デ」も「二」に言いかえることはできない。

 (8睡眠不足頭痛に悩んでいる。(宗田(1992))

 (9長期に亘る日照りで、作物の不作に苦しんだ。(三原(2000))注4

 (8)(9)の「デ」を「二」に言いかえることができないのも、「感情の対象」と「原因」がそれぞれ存在することによる。

 ここでは、話者が悩み(苦しみ)の原因と結果を因果関係として認識し「~デ~ニ悩む(苦しむ)」という対で表現されているのであり、単に「共起」という現象を捉えても意味がありません。「睡眠不足にも悩んでいる」、「長期に亘る日照りにも苦しんでいる」と言えます。

 また、「睡眠不足と頭痛に(で)悩んでいる」し「長期に亘る日照りと、作物の不作に(で)苦しんだ」とも言える。

 事実として、睡眠不足が原因で頭痛が起こっていても、何を悩みの対象と考え、因果関係をどのように捉え、表現するかは、あくまでも話者の認識の問題です。誤った認識をし、「頭痛で、睡眠不足に悩んでいる」と表現するかもしれないし、どちらが真実かは、表現とは別の問題です。

「二」と「デ」が共起するからといって、意味を問題にしなければ「言いかえる」ことはできるが、意味を考えれば最初から「言いかえる」ことはできないということです。

続いて、<32 格助詞の「デ」ではない「デ」>を見ましょう。

 ところで、「~デ、感情動詞」という構文の用例を集めてみると、格助詞の「デ」ではない「デ」の用例がある。

 まず、次の(10)は、ナ形容詞の連用形の「デ」である

 (10)「簡単で{*に}驚いた。非常食では飽きてくるし、普段の料理に近いものを食べると安心できる」(読売20081223注5

 (10)は、災害時に簡単に作れる料理の講習会に参加し、さばのホイル包み焼きを作った人のコメントである。形容詞は何らかの属性を表すものであり、その属性の持ち主が必要である。(10)の「簡単で」は、言語化されていないが、「さばのホイル包み焼き」が属性の持ち主である。(10)の「簡単で」は、「さばのホイル包み焼きは簡単だ」の「さばのホイル包み焼き」が言語化されていないだけで、述語なのである。「さばのホイル包み焼きは簡単だ」ということが、「驚く」という感情を引き起こしたという点では、「簡単で」は「原因」であると言えるが、述語であるという点で、格助詞の「デ」とは区別することができる。そして、ナ形容詞の連用形の「デ」は、「ニ」に言いかえることはできない。

  「ナ形容詞」などという品詞が持ち出されていますが、このような品詞の分類は誤りです。ここでは、名詞「簡単」に続く「格助詞」の「デ」が原因を表しています。「簡単」は形容詞的な内容を表している漢語で「簡単な作業」というように使用されます。この場合の品詞は活用のない形容詞というべきもので、通常の活用のある形容詞と形容詞的な内容をもつこれらの語を一括して「静詞」と名付けることを三浦つとむが提唱しています。形容詞とは実体の静的な属性を抽象したものです。しかし、ここではその属性を実体的にとらえた名詞として「簡単」が使用されています。

「簡単で」を一語の「ナ形容詞」の連体形とみることは、形容詞の活用と捉えるものですが、「形容詞」とは「属性」の表現であり、話者の主体的認識である原因の認識を表すことはありません。ここでは明らかに原因として認識し表現され、読み手もそのように認識しています。ここで論理が破綻しています。この矛盾を避けるために、「述語」などという規定を唐突に持ち出しているわけですが論理的とはいえません。

 初めの所に、注5が付けられ、次のようになっています。

 10)は、「ニ」に言いかえた場合、「たやすく驚いた」という意味では適格文である。

 と記されているように、「簡単に驚いた」とした場合は「簡単」は名詞ではなく静詞で属性表現の語と判断され、「さばのホイル包み焼き」が簡単なのではなく、「さばのホイル包み焼きを作った人」が「たやすく驚いた」という意味になってしまいます。適格文ではありますが、この文脈では全く意味が異なります。論者は、これをもって<「ニ」に言いかえることはできない>とし、「ナ形容詞」などを持ち出しているわけですが、これはとんだ藪睨みというしかありません。 

 たとえば、<「簡単‼」、驚いた。>と、「簡単」の名詞性を明確にすれば使用できます。また、<簡単なの驚いた>と、抽象名詞の「の」を使用して、「簡単なの」と概念を明確にすれば、「ニ」を使用できます。

  ナ形容詞の連用形の「デ」は、「ニ」に言いかえることはできない。

のではなく、<漢語である静詞「簡単」という語の特性により単に「デ」を「ニ」に言いかえると全く意味が変わってしまう>のです。ここにも、単純に文を実体的に捉え、「言いかえ」と見る発想の誤りが露呈しています。言語表現の本質を正しく理解し、論理的に解明できなければ科学的な言語論とはいえません。■

  
Posted by mc1521 at 18:55Comments(0)TrackBack(0)言語

2015年10月19日

形式主義言語論の「壁塗り交替」という現象論 (5)

    「感情動詞の補語についての一考察―「ニ」と「デ」について」(3)

 2 先行研究と考察の対象では、先に見たように形式主義的な用法の検討に基づき、

  これらのそもそも「デ」を使うことができない動詞を見てみると、「先輩にあこがれる」の「先輩」は「あこがれる」の対象であり、宗田(1992)の言うように「二」は「感情の対象」をマークすると言える。一方の「二」と「デ」を言いかえることができる場合がある動詞も、「地震に驚く」の「地震」は「感情の対象」と言えるであろう。そして「地震で驚く」と言った場合は、「地震」は「驚く」の「原因」である。つまり「地震」は「驚く」の「感情の対象」であり、かつ「原因」でもあるのである。「ニ」をどのような場合に「デ」に言いかえることができるか、という問題は、「感情の対象」がどのような条件を満たせば「原因」と言えるのかという問題である。

 と、感情の対象の条件に単純化され、これに基づき言いかえできるか否かの<条件>を明らかにするという論理展開になります。しかし、人が何かの感情を喚起されるからには何らかの要因があります。そこには因果関係があり、何を対象とし、何を原因とするかは話者の認識の問題であり、その認識が文として表現されます。従って、「言いかえ」とは対象の捉え方の変更あるいは、表現方法の変更として検討すべきものと考えられます。「感情の対象」自体の条件とは考えられませんが、その論理を辿ってみましょう。

 続く<3 「二」が使えるとき・使えないとき>の3.1は次の通りです。

 31 「感情の対象」と「原因」がそれぞれ存在する場合

 「二」は「感情の対象」をマークするものであり、基本的に「二」を使うことができない場合はないと言える。しかし、次の例は、「デ」が使われているが、「二」に言いかえると文意が変わってしまう。

  (7)「斐川の離脱で迷った。合併の答えが出るには二十年はかかる。二市五町で期待していたものをどれだけ二市四町で出来るかだ。市民一丸となって改めて取り組んでいきたい」(読売20031216

 (7)は、7つの市町村で合併を検討していたところ、斐川町という町が合併計画からの離脱を表明し、そのことに対して斐川町に隣接する市の市長がコメントを述べたものである。この例では、「迷った」のは「自分の市が市町村合併に参加するかどうか」であり、これが「感情の対象」である。「斐川の離脱」は、「迷う」の「原因」ではあるが、「感情の対象」ではない。このように、「感情の対象」と「原因」がそれぞれ存在する場合、「原因」を「二」でマークすることはできない。

  ここでは最初に「文意が変わってしまう」のを根拠に<「原因」を「二」でマークすることはできない>とされます。しかし、文意を問題にするのであれば「二」は単に対象の認識を表すものであり、「デ」は理由・誘因の認識を表すものですから、最初から「言いかえ」などありえないことになります。「斐川の離脱迷った」は、「離脱」を「悩み」の原因として認識し表現しています。論者は「斐川の離脱で、自分の市が市町村合併に参加するかどうか迷った」と理解しているのですが、それは論者の認識で、市長がそう表現しているわけではありません。事実をそのように認識し表現することも出来るということです。

 事実は、7つの市町村で合併を検討していたところ、斐川町という町が合併計画からの離脱を表明したため、斐川町に隣接する市が、当初の計画通り合併を推進すべきかが問題となり、検討したが、やはり予定通り市民一丸となって改めて推進に取り組んでいくことになったということです。

最初に<基本的に「二」を使うことができない場合はないと言える>と記された通り、<「斐川の離脱に迷った」>と表現することもできます。これは、「非文」でも「不自然」でもありません。この場合は、市長が単純に「斐川の離脱」を「悩む」という「感情の対象」として捉え表現しています。また「斐川の離脱(の為迷った」の省略形とも捉えられます。そして、次のように続けて表現できます。

 斐川の離脱迷った。合併の答えが出るには二十年はかかる。二市五町で期待していたものをどれだけ二市四町で出来るかだ。市民一丸となって改めて取り組んでいきたい」

 原因である対象を単に対象と捉え表現することは認識の相違であり、それに対応した表現が可能です。市長は、「斐川の離脱」悩み、「自分の市が市町村合併に参加するかどうか」の判断を迫られ、「合併に参加する」ことを決めたと言えます。ある見方からは原因であるものも、見方を変えれば結果でもあり、それぞれの事実は認識の対象でもあります。

このように、<「斐川の離脱」は、「迷う」の「原因」ではあるが、「感情の対象」ではない。>というのは、論者の認識を絶対化した誤りであり、

 このように、「感情の対象」と「原因」がそれぞれ存在する場合、「原因」を「二」でマークすることはできない。

 というのは、対象→認識→表現の過程的構造と、その相対的独立を理解できないための誤りというしかありません。■

  
Posted by mc1521 at 12:14Comments(0)TrackBack(0)言語