生成文法の形式主義、言語実体観の誤りについて見て来ましたが、これらの影響下にある現代言語学の現象論の事例として「壁塗り交替」について考えてみます。Net上で次の論考を見ることができます。
①「壁塗り交替についての考察」佐藤章子(2002)
②「いわゆる「壁塗り交替」について―構文は交替しない.単に(意味の相互調節に基づいて)選択されるだけである―」黒田航(2005)
③「構文文法に基づく日本語他動詞文の分析―壁塗り交替を事例に―」永田,由香(2005)
④「壁塗り代換を起こす動詞と起こさない動詞:交替の可否を決定する意味階層の存在」川野靖子(2009)
⑤「現代日本語の動詞「詰める」「覆う」の分析―格体制の交替の観点から―」川野靖子(2012)
「壁塗り交替」と呼ばれているのは、
a. ジョンは、壁にペンキを塗った。(〜ニ〜ヲ) b. ジョンは、壁をペンキで塗った。(〜ヲ〜デ)
という様に、同じ「壁塗り」という現象が「~に~を」という文と、「~を~で」という二つの構文で表現されるのを捉え名付けられたものです。「塗る(った)」という動詞の形態が変わらない二つの構文を「壁塗り交替」と呼んでいます。これは英語でも同じで、①では、
の例を取り上げています。そしてこの二つの文が同じ意味なのか、相違するとすれば、何が異なるのか、その理由は、さらに「壁塗り交替」の出来ない動詞との相違の究明がテーマとなっています。①では、認知言語学の立場から、次のような解釈が提示されています。(以下、色付け、強調は評者。)
(a)では動詞から近い位置にあるのは移動物であるペンキ(paint)なので、動詞の影響を大きく受けているのはペンキである。ペンキに対する動詞の影響といえば普通は、「ペンキの壁への移動」だと考えられるため“移動”を叙述した文だと言える。また、pour型の構文を使っていることから、動詞の意味構造の<変化(移動)>の部分に焦点があてられているので、その結果としての壁の状態は言及していない。したがって、壁の一部にしかペンキが塗られていない状況を表現することが可能である。これに対し(b)では、動詞の影響を大きく受けるのは場所名詞である壁(thewall)である。壁に対する動詞の影響が大きいということは一般的に、「壁がペンキで塗り尽くされた」という事態が考えられるので“結果状態”を叙述した文ということになる。fill型の構文であるため、意味構造の<結果状態>の部分に焦点をあてて表現しているので、壁全体がペンキで塗られたという解釈が強くなる。結果的に、一般的な状況のもとで、壁の一部にしかペンキが塗られていないという事象を表現することはできない。
表現形式が異なるだけで論理的な意味は等しいとされてきた2つの構文だが、ある状況を表現するのにどの部分に焦点をあてるかが異なっているということがわかった。形式の違いが意味に反映されるということは、どの形式を選択して表現するかによって、話者の認知の仕方が示されているといえるだろ。
ここでは、「動詞の意味構造」なるものが問題とされ、「ペンキに対する動詞の影響」を「大きく受ける」部分への話者の認知の仕方が問題とされています。すなわち、「動詞から近い位置にあるのは移動物であるペンキ(paint)」なので」、「動詞の影響を大きく受けているのはペンキ」であり、「動詞の影響を大きく受けるのは場所名詞である壁(the wall)である」と<動詞>の意味によらず、<動詞>自体が何かに影響を与えるという言語実体観による形式的な解釈が示されています。
言語過程説では、言語とは対象―認識―表現の過程的構造に支えられた表現ですから、この文に表現されている話者の認識が明らかにされなければなりません。これを「ジョンは、壁にペンキを塗った」について、丁寧に辿ってみましょう。
「ジョンは」と始まっていますから、他のビルやスミスではなく、ジョンという人の特殊性の認識を表しています。そのジョンが「壁に」ですから格助詞「に」は、<帰着点や動作の及ぶ方向を表す>ので、ここでは、<目標・対象などを指定する>ことになり、「壁」という動作対象の目標認識を示しています。次に、「ペンキを」で、格助詞「を」が<動作・作用の対象を表>しますから「ペンキ」が動作対象であることを認識しています。そして、「塗る」という動詞が<物の表面に液や塗料,また,ジャム・バターなどをなすりつける>動作の認識を示し、助動詞「た」が、これまでの内容が今現在ではなく、過去の事実であった認識を示しています。このように見てくれば、この文の意味は明瞭となります。意味とは、話者の認識と表現された形である文との関係ですから、この文が話者の認識と結びついているのが判ります。「ジョンは、壁をペンキで塗った」もまた、同様に意味をもち、対象が「壁」であり、材料、手段が「ペンキ」であることが示されています。つまり、この2つの文は、対象の認識が異なるのであり、格助詞「に」「を」「で」はそれぞれの話者の認識を表現しているのであり、交替をしているのでも何でもなく、話者の認識の相違に対応しています。
このように、対象―認識―表現という過程的構造を捉えられない、言語実体観という形式主義的な見方では単に表現された文や語という形自体か、認識抜きの対象と形との関係にすべての要因、原因を求めざるを得ないことになります。そして、単に文の形の比較から格助詞の交替という現象に意味があるという誤った判断に導かれます。
認知に注目した認知言語学も又、上に見るように「動詞に近い位置にある」「移動物」「場所名詞」などという、話者の認識を示す語の本質とは無関係な語順や名詞の属性という形式を問題にするしかないというのが実情です。
「壁塗り交替」などという形式的な現象を捉えるしかないところに現在の言語学の限界が露呈しています。さらに、もう少し内容を検討してみましょう。■