2015年10月09日

「天の原ふりさけ見れば…」― 万葉学の現在  再考(1)

 先に、古今集の阿倍仲麻呂の歌、

  天の原ふりさけみれば春日なる三笠の山に出でし月かも

について、壱岐の天の原から博多湾岸の宝満山に昇る月を見ての歌との論証を記しました。この「天の原ふりさけみれば」の句には万葉集に先例があることを古田武彦氏が『古代史の十字路 万葉批判』で論じていますので、これを辿ってみましょう。万葉集の巻二・一四七番の、

  近江大津宮に天の下知らしめしし天皇の 天命開別天皇、謚して天智天皇という
    天皇聖躬不豫之時太后奉御歌一首
                        みいのち
  天の原 振り放け見れば 大君の 御壽は長く 天足らしたり
                 
です。通説では、「大空を振り仰いで見れば、大君の御命は長久に空に満ち足りるほどである」といったものですが、(天智)天皇が病に斃れ、床に伏しているのに作歌者(倭大后)が「天の原ふりさけみれば」というのは大仰な芝居がかった感じで歌と前書きとのアンマッチが見て取れるということです。

 やはり、「これは当然、博多湾沿岸から北上して朝鮮半島側へ向かう際、壱岐の北端部「天の原」近辺における作歌と見なす」しかありません。この歌は前書きの時代性から7世紀後半で、8世紀になって「大空を振り仰いで見れば」という句を仲麻呂が「天の原(地名)」の意味で再利用というのは考えられません。

 この歌の真の作歌者は、なぜこのルートを北上しているのか。この時代を画す出来事とは、「白村江の戦」です。その戦のために北上する、その途次の歌となります。ここを過ぎれば、ふたたび祖国を見ることはないであろうとの思いが詠われています。その博多湾沿岸には内湾である今津湾に「長垂(ながたれ)山」があるのです。室見川の左岸(今宿の東)に当ります。ここはペグマタイトという雲母を含む鉱石の産地で現在天然記念物に指定されています。その室見川上流には、最古の「三種の神器」をもつ弥生王墓、吉武高木があります。九州王朝の「神聖なる原点」たる陵墓です。彼は、その方向を望み見ています。
 つまり、この歌の下句、「御壽は長く天足らしたり」には、この「長垂山」という地名が詠み込まれていたのです。通説の解釈では、この緊密な内的意味の繋がりを捉えられない散漫な解釈となってしまいます。古田氏は次のように記します。

 彼が博多湾岸を出発して“死を覚悟した”戦に出でゆくとき、この「吉武高木」の陵墓へ参拝し、そのあと、博多湾沿岸の「長垂山」近傍(室見川河口)から「船出」してここ「天の原」に至ったのではあるまいか。
 「天足らしたり」
の「天」が、九州王朝の天子の「自称」であったこと、言うまでもない。隋書俀国伝において
「姓は阿海(あま)、字は多利思北孤、阿輩雞弥と号す。」
とあったこと著名である。
 ここで彼(Y)が歌っているのは、
「倭国(九州王朝)の歴代の王者(ニニギノミコト以降)は、死して今も、永遠のいのちを保っておられる。」
という内容なのである。……
 すでに「己がいのち」に先はない。そう思いかためていたことであろう。わたしの青年時代の友たちと同じだ。
 そのような中での「作歌」だったのである。
 「天の原で、はるばるとふり仰いでみると、長垂山の向うに鎮まります、死せる王者たちの御いのちは永遠である。」
 自分はやがて死ぬことであろう。しかし、倭国(九州王朝)の歴史は永遠である。そのように信じようとしているのだ。その気持ちは、あのような時代(戦前)の一刻をもったわたしには痛いように判るのである。(『古代史の十字路 万葉批判』第十章 《特論三》「倭国別離」の歌)

と痛切な氏の共感が述べられています。阿倍仲麻呂は、この歌を当然知っていたことになります。そこからは、仲麻呂の歌がこれまでとは全く異なった「光」を放つことになります。古田氏の解読を次に記します。■
  
Posted by mc1521 at 22:42Comments(0)TrackBack(0)歴史